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2004/12/30 JKUC170JKUCメールマガジン(2004年12月30日 第170号)
<1月2日(日)の予定> シャトル:JR六甲道9:45、阪急六甲9:50 10:00 礼拝 <1月の教会行事予定> 31日(金)20時 新年カウントダウン@マイク宅 2日(日)10時 礼拝 8日(土)18時 アルファコース 9日(日)11時 新年ランチ 12日(水)9時半 WOW開始
<アルファコースの案内> 全世界の教会で行なわれているキリスト入門クラスの「アルファコース」(日本語)が、いよいよ1月8日(土)から神戸ユニオン教会にてスタートします。6時から夕食会が始まり、楽しく学びをします。また、自由に様々な質問をすることができます。参加希望者は、ぜひオフィスにお申し込み下さい。夕食や講義の費用は不要です。また、JR・阪急六甲からのシャトルが必要な方は、教会にご連絡下さい。また、すでにアルファコースを修了された方には、アルファスタッフを募集しています。アルファで受けた恵みを新しい参加者の方々とお分かちください。
Anyone interested 誰でも興味ある人は参加できます Helping one another 参加者が助け合います
<聖書を読もう> アクセスして聖書箇所をクリックすれば、今週のDaily Scriptureを読むことが出来ます。 http://calendar.msn.com/kucJapanese@hotmail.com O エレミヤ31:7-14 O 詩篇147:12-20 O エペソ1:3-14 O ヨハネ1:1-8 =日替デボーションもどうぞ= http://www.agape-tls.com/agapetv/devotv/index.html http://www.familyfocus.gr.jp/www/radio/internet_radio.html
<地震と津波の被害> スマトラ沖大地震と津波の為、アジア諸国・アフリカ等インド洋周辺諸国において、大きな被害が出ています。阪神淡路大震災の300倍の地震と報道されていましたが、想像を超える大きさです。タイを訪問していた教会員からは無事の報告を聞いていますが、休暇で訪れていた外国人同様、現地の人々の多くがまだ行方不明のままです。どうぞお祈りの内に覚えて下さい。
<Leftover Praise:詩篇148> 1 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。 2 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。 3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。 4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。 5 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。 6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。 7 地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。 8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。 9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。 10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。 11 地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。 12 若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。 13 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。 14 主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。
今月はクリスマスの集会やメッセージを多く聞く月ですが、クリスマス・イブ礼拝の後、最初の日曜日には何が残っているでしょうか。パーティーを開けば、食べ物に残り物(レフトオーバー)が出てきます。教会では、イブ礼拝をピークとするならば、何が残っている(レフトオーバー)なのでしょうか。
それは賛美です。私たちは主を賛美する多くの理由を持っています。主イエス・キリストが降誕されたことにより、御子イエスを通して、神様は私たちに「神の国」について教えてくださいました。救いの道について示してくださいました。主イエスは十字架上の死によって人類の罪をすべて贖い、私たちに救いをもたらしました。私たちの罪はすべて赦され、永遠の命が与えられ、神の子とされました。また、神様と和解し愛の関係を持つことが可能になりました。私たちはイエスの降誕によって、神様を賛美する理由を多く持っています。
詩篇148編には、「ほめたたえよ」と賛美が繰り返されています。第1節にハレルヤがあり、最後の節もハレルヤで締めくくられています。ハレルヤは、ヘブル語の2人称複数命令形で「(あなたがたは)主を賛美せよ!」という意味です。この天と地にあるものすべてが神を礼拝し賛美することが語りかけられています。それは聖書の一方的な命令ではなく、賛美されるべき理由を伴う命令です。主を賛美しつつ新年を迎えましょう。
<2004年を振り返って> 2004年をあとわずかに残して、この年を振り返って見ると何が思い浮かびますか。
「洗礼(バプテスマ)の年でした」 2004年度は7名のバプテスマがありました。それぞれ違う人生の道のりを歩まれ、違った導きの中で主と出会い、今年洗礼の決心へと一歩を踏み出しました。そして、同じキリストの赦しと救いの恵みに預かることが出来ました。ある人にとっては、洗礼式は通りたくない儀式のように感じます。また、教会に行っているのと洗礼を受けてキリスト者となることを混同することもあります。しかし、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:16)と主イエスが宣言されたこと、信仰によって義とされること(ローマ3:12)、恵みの故に救われること(エペソ2:5)を私たちは信じています。さらに、教会を訪れる方々、信仰に導かれる方々、救いに預かる方々が起こされるように祈ります。
「日本人への伝道に導かれる年でした」 今年の千刈キャンプでは、「信仰の分かち合いー日本人伝道」が大きなテーマとして挙げられました。また教会や役員会の中で、さらに大きな日本人伝道に教会として取り組むことが話し合われました。自分たち為だけの教会意識を持っている限り、聖書的健康的教会へと成長しません。教会が礼拝と弟子訓練、聖徒の交わりの場であると同様に、地域への奉仕と福音宣教、さらに世界宣教に関る必要があります。日本の文化や人々のマインドセット、宗教的タブーや恥文化、日本人的人間関係とコミュニケーションなどを話し合ったり、学ぶ機会を持ちました。WOWでは、6ヶ月かけてアルファコースを学び、またキリストの生涯を辿りながら英語を学ぶクラスにも求道者が来られています。今秋コミュニティーレディーカフェを開き、3名のクリスチャンの証しを聞く場が持たれました。また、それを機会に新しくこられた方々が教会に続けてこられています。
「フェローシップな年でした」 第2礼拝後のランチや交わりは、計11回になります(1/3,2/2, 3/14, 4/4, 25, 5/16, 6/27, 7/18, 25, 8/15, 10/7) 。また、サンクスギビング(11/25,26,27)やクリスマス(12/12,24,25)、ホームグループやお祝いの会、さよならパーティーやピクニック等、教会以外の場所でも様々な集まりが持たれました。いろいろな機会の中で信仰と親交を深めることが出来たのではないかと思います。
「天災が多い年でした」 日本では、台風23号と新潟中越大地震により甚大な被害がありました。年末のニュース特集にチャンネルを合わせれば、「天災の多い年」という言葉を耳にします。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります」(マタイ24:7)という主イエスの終末預言の言葉を、現実味を帯びて受け取ることができます。主の時が近づいていることを覚えつつ、祈りの内に主の再臨の心備えが必要だと感じました。
「新しい人生のスタートの年でした」 2004年、どのようなビジョンと計画を持ってスタートしましたか。神様はあなたの生活と人生の中に介入され、係わりを持たれているでしょうか。神様の新しい導きや奇跡を体験したでしょうか。洗礼だけが新しい信仰のスタートではなく、まだ洗礼を受けていない人にとっても、聖書について知り信仰について目が開かれた年だったでしょうか。すでに洗礼を受けている人にとっては、神様との関係が新たにされた(リニューアル)、信仰にもう一度復帰した(リバイバル)の年であったことを願います。
年末の掃除や新年の準備に追われて忙しい週ですが、しばらくの時間を静まって主と共に過ごされることをお勧めします。この年を振り返って見ると何が思い浮かびますか。
<マルコ書聖書研究プロジェクト2005> KUC月報のMesseger12月号にも記載しましたが、2005年度の一つの計画として、「マルコ書聖書研究プロジェクト2005」を挙げています。今秋、キリスト教出版社「聖文舎」のご好意で、「マルコの福音書注解書」を譲り受けました。「信徒のための聖書講解」シリーズで、とてもわかりやすく注解がなされています。メルマガでも強調しているデボーションに次いでお勧めすることは、聖書の個人的学びです。聖書を深く読み、その背景や文化、文脈を学びながら、聖書が語ることを理解することです。サンデースクールや平日のホームバイブルスタディーに参加出来ない方は、個人で又ご家庭で聖書を学ぶツールとして、注解書は心強い友になります。部数には限りがありますが、教会に来られている方々に無料配布いたします。どうぞオフィスで1冊お受け取り下さい(ご夫婦は2人で1冊とさせて頂きます)。また、新約聖書スタディーバイブル(新共同訳)が今年出版されました。こちらも聖書の学びには強い見方です。オフィスで購入可能です(2960円)。
<神戸ユニオン教会 日本語ミニストリ―> 2004/12/24 JKUC169JKUCメールマガジン(2004年12月24日 第169号)
<12月26日(日)の予定> シャトル:JR六甲道9:45、阪急六甲9:50 10:00 礼拝(洗礼式があります) <12月の教会行事予定> 24日(金)19時半 クリスマスイブ礼拝 礼拝後の交わりの時間の為に、クッキーが必要です。冷凍させたクッキーを教会まで持ってきてください。 25日(土)16時 クリスマスポットラックディナー@マイク宅 31日(金)20時 新年カウントダウン@マイク宅 ※ WOWは1月12日に再開
<アルファコースの案内> Alpha Course 2005 Starts! 神戸ユニオン教会では、初めて教会に来られた方や聖書やキリスト教に関心がある方をお招きして、ディナーとキリスト教入門の夕べを企画しております。1月8日(土)をオープニングに、毎週土曜日午後6時からディナー&スタディーを12週かけて行ないます。
アルファコースと呼ばれるこの「キリスト教入門講座」は、20年前にロンドンの教会で始まり、現在では英国のみならず、143カ国で28,500以上のアルファ・コースが開かれています。毎回300名規模のアルファコースを開催している教会では、受講する為に順番待ちということも起こっています。キリスト教信仰を実践的に紹介する15回のセッションからなり、特に教会に行っていない人たちのためのコースとして作られました。 聖書やイエス・キリストについて基本的なことから学ぶと同時に、私たちの人生にある疑問を、ひとつひとつひも解いていきます。あなたも聖書やキリスト教について学ぶ一時を一緒に過ごしませんか?また、もしあなたがクリスチャンで基礎から聖書について学びたいと願っているなら、ぜひご連絡下さい。信仰を積まれた方々にも素晴らしい学びの一時になると思います。(受講料や夕食代は必要ありません。)
Anyone interested 誰でも興味ある人は参加できます Helping one another 参加者が助け合います
<聖書を読もう> アクセスして聖書箇所をクリックすれば、今週のDaily Scriptureを読むことが出来ます。 http://calendar.msn.com/kucJapanese@hotmail.com O イザヤ63:7-9 O 詩篇148 O マタイ2:13-23 =日替デボーションもどうぞ= http://www.agape-tls.com/agapetv/devotv/index.html http://www.familyfocus.gr.jp/www/radio/internet_radio.html
<Obedience to a Call:マタイ1:18-25> 「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
最近は「できちゃった婚」という言葉が、ごく普通に使われるようになりました。ある人は、「同棲している関係で結婚を考えていたところだったので、踏ん切りがついて結婚します」といいます。ある人は、「子供ができてしまったらから、責任を取って結婚します」といいます。「お腹が出てくる前に結婚式を挙げたいのですが」と教会に飛び込んでくる方もいらっしゃいます。そのようなカップルと出会う時、「よく結婚することを決心しましたね。生まれてくる赤ちゃんは素晴らしいご両親を持てて幸せだと思います」と声を掛けます。なぜなら、私たちの知らない所で多くの人々が中絶を選んでいるからです。
聖書に戻ります。ヨセフは妊娠しているマリヤと結婚しました。しかし、できちゃた婚ではありません。まだヨセフは性関係をマリヤと持っていませんでした。聖書は「聖霊によって身重になった」と記しています。処女マリヤと結婚しようとする青年ヨセフの立場に立って考えて見てください。まだ性関係をもっていない婚約者が妊娠しているのです。もしあなたのフィアンセにそれが起こったら、どうしますか?誰の子か分からないまま、そのまま結婚して生まれて来る子供を育てていく勇気がありますか。おそらく周囲の人々は、ヨセフを「できちゃった婚」だと冷やかしたかもしれません。中傷や非難を受けたかもしれません。もしヨセフが自分の身の潔白さを主張しようものなら、律法に従って性的罪を犯したとしてマリヤは殺されたでしょう。ヨセフは妊娠が発覚した時、「内密に去らせよう」としました。それは、ヨセフの優しさであり、正しさでした。
神様はこのカップルを選び、救い主なるイエスをゆだねられました。マリヤは自分の身に起こったことを、ヨセフは天使の信じがたい知らせを受け入れなければなりませんでした。天使の言葉通りに、マリヤを妻として迎え入れたヨセフの信仰は、キリストが誕生し救いのみ業をなされる道を開いたのでした。主の言葉があなたに語られる時、それを受け止める信仰をもっているでしょうか。
<暗やみの光:デイリーブレッド> 冬景色を描いている画家がいました。雪に覆われた松林に闇が迫り、丸太小屋が薄暗がりの中にかろうじて見えます。その絵全体は、なんとなく陰気でした。ところが、画家が黄色い絵の具で小屋の窓から漏れるランプの明るい光を描くと、その一筋の光が放つ金色の輝きが雪に反射し、絵の印象を一変させました。窓に灯る明るい光は周囲の暗く冷たい森と対照をなして、愛する人のぬくもりや家庭の安らぎを感じさせます。
このキャンバスの上で起きたことは、歴史上、最も劇的な出来事の一つを鮮やかに表す比喩です。イエスはベツレヘムの馬小屋で生まれましたが、そのとき、罪の暗闇で真っ暗だった世界の光が灯されたのです。使徒ヨハネは「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」と語っています(ヨハネ1:4)
今週はイエスの降誕に心を留めるときですが、救い主の誕生を祝いながら、このお方が来て下さったことで、どれほどこの世界が明るくなったか考えて見ましょう。イエスは言いました。「私は世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12) さて、イエスはあなたの人生をどのように明るくしましたか。 (2003・12・24)
<心いやされるための3つのステップ Ⅲ> 第三のステップは、「新しいライフスタイル(生き方)の選択」です。 もしあなたがある事柄に対して過剰反応してしまうことを知っており、またその反応の元となる原因を知ることが出来るなら、「新しいライフスタイルを選択」出来ることを知ってください。怒って爆発しそうな時、気持ちを静め、その反応が心の傷から来ていることを理解し、主に平安と助けを求めることを選択することが出来ます。落ち込んで自己卑下の泥沼に落ち込もうとする時、今まで自分を苦しめて来た「うつのパターン」を発見して、自己卑下が何の解決にもならず、自己卑下によって実は自分を慰めている事実を理解して、むしろ、主にあって赦されて生きることに目を向けてください。光の子らしく歩むことに思いを寄せましょう。
神様が私たちの心のいやしを願い、実際にいやして下さる一方で、サタンは。私たちの心がいやされないまま、傷ついたままにしておきたいと願います。そして、傷ついたライフスタイルに留まるように誘惑してきます。そして、私たちの選択は、時に「霊的な戦いの瞬間」となります。新しいライフスタイルを選ぶか、古いパターンに戻るかは、自分の選択によって勝敗が決まる「激しい戦場」だからです。私たちは、古いライフスタイルに引き戻そうとする衝動や否定的な思いに戦わなければなりません。否定的な思いが来る時、イエスの御名によって縛って追い出さなければなりません。否定的な思いを拒否するのです。心の傷は、サタンが入り込む入り口になります。その傷ついた思いから入って、アルコール中毒やギャンブル、人への中傷や批判、家庭内不和や暴力へと罪の巣を形成して行きます。
たとえば人が憎いという思いが来た時に、その思いを受け入れると、憎悪が心の中に広がり、怒りが噴出したりします。受け入れなければ、人を憎むことにはなりません。頭のどこかで「私の夫が憎い」と思えば(思考)、瞬間的に心(思い)に入ってきます。決してそれを受け入れてはなりません。イエスの御名によって、その思いを締め出してください。私たちの周りにはいつも誘惑が潜んでいます。その思いが来た時、それを退けるのです。退けるならば、罪を犯したことになりません。それを心に取り込んでその思いに賛同する時、心の罪となりまた罪の実行へと移されます。サタンは何度もそのような否定的な思いで攻撃してきますが、心に受け入れないで退け続けるなら、霊的な戦いに勝利し、誘惑や否定的な思いは去って行きます。私たちが基本的に知っておくべきことは、誰かを憎いという思いは、神様から来たものではないことです。
神様の喜ばれる選択をすることが、新しいライフスタイルへの鍵です。 「いやしのセミナー」に参加して心のいやしを体験しても、その後の生活が新しくされなければ、古い習慣や思い、考えはいつも私たちを捕らえることになります。新しいライフスタイルを選択することは、心のいやしが継続されるだけでなく、霊的な成長の証しとなります。
<神戸ユニオン教会 日本語ミニストリ―> 2004/12/22 JKUC2004⑦
<目次> <アメリカ訪問の報告>(2004年7月16日 第147号) <The Christian Community ローマ15:1-13>(2004年7月24日 第148号) <Love that Forgives Others ルカ11:1-13>(2004年7月27日 第149号)
<アメリカ訪問の報告> 6月28日(月)から7月10日(土)まで、アメリカに住んでいる親族を訪問してきました。28日(月)に関空を出発、同日午後シアトル到着。妻の叔父叔母宅に1日半滞在し、30日(水)の早朝の便でニューヨークに向かいました。夕刻、妻の従姉妹が空港で出迎えてくれて、1日NYで過ごした後、祖母の住むコネティカットに車で従姉妹と共に行き、そこで週末を過ごしました。滞在した近くには伝統的な教会がいくつかありましたが、電話帳とインターネットで調べて、車で30分のところにあるWalnut Hill Community Churchの礼拝に行きました。Seeker-FriendlyのContemporary Churchで土曜日1回と日曜日3回礼拝を行い1000名が礼拝に集われているそうです。美しく広いハイテクの礼拝堂、サンデースクールやそのほかの様々なアクティビティー、新来会者をウエルカムルームで温かく迎え、教会を紹介する人々の奉仕が目に留まりました(http://www.walnuthillcc.org/index.html)。5日(月)にバスでNY経由でリッチモンドに向かい、友人夫妻宅に2日間滞在しました。リッチモンドは、1996-1998年まで神学校の修士論文作成と教会のインターンシップで過ごした地です。当時開拓教会として3年目で小学校の行動を借りて150名くらいの礼拝だった教会は、新会堂を建て1000名の教会に成長していました。7日(水)には、牧師と久々のランチミーティングをして、教会開拓と牧会リーダーシップについて、いろいろなアドバイスやビジョンを頂きました。また、宣教団体YWAMのスタッフミーティングに招かれ、神戸ユニオン教会での伝道と教会の働きについて、証しを分かち合う機会が与えられました。その中で、多くのクリスチャンや宣教師から派遣と宣教の祈りを頂きました。8日(木)は電車でリッチモンドからNYに向かい、9日(金)朝の便で日本に向かい、10日(土)帰国無事しました。皆さんのお祈りを感謝します。 ※ 旅行の為、メルマガも2週間お休みとさせて頂きました。
「25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
神様の戒めは2つに集約されます。27節に書かれている『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』と『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』の2つです。神様との関係と隣人との関係にあります。縦軸(神様との関係)と横軸(人々との関係)の2つの軸に生きているといえます。愛の戒めについて学ぶが難しい理由は、その実践にあります。愛の戒めは、頭で学ぶとか、戒めとして厳守するという類のものではなく、生活の中で実践していく「現在進行形」の動詞であるべきものです。
30節以降に「よきサマリア人」として知られているたとえが語られています。宗教的に尊敬され権威を持っていた祭司やレビ人は(旧約)聖書を熟知し、教え、祭事を執り行っていたにもかかわらず、助けを必要としている人には何の手も貸さずに通り過ぎました。一方、サマリア人は立ち止まり、その人を介抱し、その人の回復に必要な費用をも惜しみませんでした。サマリア人は、自分の労力も時間も財をもその身も知らない人に注ぎました。そこには愛の犠牲がありました。見返りを考えない憐れみの心がありました。愛の実践がありました。神様が人の心に愛を見る時、それはその人が教会に行っているか、献金をちゃんとしているか、もしくは教会学校の先生をしているかどうかを見る訳ではありません。有神論者か無神論者か、キリスト教か仏教か、学歴のあるなしや人の評判のよしあしではありません。その人の本質、その人の動機、そこからともなう行動に目を留められます。私たちクリスチャンにとっては、本当に謙遜になって、自分の心の動機とそれに伴う行動を再点検する必要が出てくるでしょう。そして、私たちに与えられている「愛する動機(the reason to love)」を確認するに至ります。私たちが人々を愛する理由は、主イエス・キリストにあります。主の十字架と贖いにあります。主の犠牲の愛にあります。この愛を知ったからこそ、自分を犠牲にすることや人を無条件に赦すことが可能になります。
あなたは神様を愛していますか?隣人を愛していますか? 「あなたも行って同じようにしなさい。」
<The Christian Community ローマ15:1-13> 人との関わりを考える時に、2つの両極端の考えが出てきます。一つは、「私には何も個人的な関係をもつ必要はありません。持つかどうかについても、私にはどうでも良いことです」。反対側の立場は、「私には個人的な関係が必要で、あなたには私に対してその責任があります。あなたは私を助け私の必要を満たす責任を持っています」。この両極端は、愛に欠けており、プライドをその根底に持っています。一つは、愛を受ける必要も愛を与える必要をないという感情による、愛のないプライドを表わしています。これは強さと自己充足のプライドです。他方は、愛を与えてくれないことに対して他人を非難することによる、また、他人の愛を所有しようとする感情による、愛のないプライドです。これは、弱さと自己憐憫のプライドです。この両極端は、本当の愛とは何か、なぜ神様は私たちが愛を与え、神様からとお互いから愛を受けるように、私たちを造られたかを発見する必要があります。彼らは神様の神の恵みによって変えられたいのです。そのためには、まず自己充足主義から離れなければなりません。そして、「私は普通私が愛し愛される親しい関係を求めません。しかし、この愛と言う分野において成長したいのです。私を助けてくれませんか?」という必要があります。もう一方の人は、自分のことで頭がいっぱいな状態と自己憐憫から離れる必要があります。「私は他人が私のように真実な友人を必要としている事を知っています。私はその人の真実な友達になりたいと思います。自分のことや自分の必要についていろいろ考えることなしにそうしたいと思います。私を助けてくれますか?」と言う必要があります。また、これほど極端でなくとも、私たちはこの両極端のスケールのどこかに位置していることを心に留めておきましょう。
イエス様は、関係とコミュニティーのモデルを私たちに示されています。それはイエスに着いて行った何百人の中から72人を特別な働きの為に選び(ルカ10:1)、さらに12人を弟子として選び(マルコ3:14)、生活とミニストリーを通して親しい関係を持たれました。さらに、ヨハネとペテロとヤコブの3人(マルコ5:37、9:2.14:33)を特別な絆で結ばれました。その中でもヨハネとは非常に強い絆が結ばれていました(ヨハネ21:20)。イエスと伴なる人生とミニストリーは、生活とミニストリーが一緒になることでした。
次に聖書的なコミュニティーの基準について学びましょう。ヨハネ13:34-35には、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」とあります。キリストに従った人々とキリストのコミュニティーに属していた人々は、キリストの言葉を生活に響かせました。使徒パウロはいろいろな箇所でこのように述べています。
ローマ12:5 「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」 ローマ12:10 「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」 ローマ14:19 「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」 ローマ15:14 「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」 1コリント12:25 「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」 ガラテヤ5:13 「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」 ガラテヤ6:2 「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」 エペソ4:32 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 エペソ5:21 「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」 ピリピ2:3 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」 コロサイ3:9 「互いに偽りを言ってはいけません。」 1テサロニケ4:18 「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」 1テサロニケ5:15 「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」 同様にパウロ以外の書簡でも次のようにあります。 ヘブル10:24 「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」 ヤコブ4:11 「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。」 ヤコブ5:9 「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。」 ヤコブ5:16 「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。」 1ペテロ4:9 「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」 1ペテロ5:5 「みな互いに謙遜を身に着けなさい。」
これらの節は、愛とキリスト中心の関係が普通であり、キリスト者信仰の不可欠な部分であることを示しています。もちろん、これらは簡単な事ではなく、だからこそ聖書にこれだけ多くの励ましの言葉が記されている訳です。私たちは、本質的にこのように「互いの」関係を持てるというよりも、「誰かに煩わされることや、関係を必要としている人に侵入されることを好みません。まとわり着いてくる人のことで煩わされたくないと思います。「彼らは人間関係を築く技術を持っていない」「本人が自分ひとりで生きている訳だからそれでいい」そう思って、孤独な道をひとりで歩む結果を自分で刈り取ればいいと、彼らをほったらかしにすることにします。
ある文化圏では、個人が優先し、互いに真実で意義あるコミュニケーションを持つことが不得意です。別の文化圏では個人よりもコミュニティーが優先し、時に個人が抑圧されます。聖書的なコミュニティーは、この両極端の真ん中のどこかにあるはずです。キリスト者のゴールは、神の栄光を表わすことです。その目的の為に、すべての関係は究極的に、キリストを通して、神への喜びと実りある情熱が、目覚めさせられ、強められ、深められることが必要です。キリストは私たちの為に命を捨ててくださいました。それ故に私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。聖書的コミュニティーに向かって進みましょう。
<Love that Forgives Others ルカ11:1-13> 先週ブレント牧師はクリスチャンコミュニティーについて、キリストにある相互の愛の関係としてメッセージを語られました。2週前にはマイク牧師は、ルカ10章から良きサマリア人のたとえについて語られました。聖書が語ることを頭でしっているだけではなく、神様は行動すること(神様の愛を反映した実践)を喜ばれます。主イエスは律法全体が「あなたの神を愛せよ」「あなたの隣人を愛せよ」の2つに集約されると述べられました。私たちが愛について聞くことは自体はいいですが、実際に生活に適応することはまた別のことです。ある時は実践することが簡単に感じますが、時に難しく感じます。たとえば、嫌いな人、しつこい人、面倒をかける人、傷つけられた人、意地悪な人、性格の合わない人、劣等感を感じさせる人を愛するという行為は感情の葛藤を感じます。人を愛すると言うことは、エネルギーを使う重労働です。仲の良い友達を愛することは簡単そうですが、好きではない人をどのようにあいすることが出来るのでしょうか。
主イエスは「敵を愛せよ。敵の為に祈れ(マタイ5:44)。彼らを赦しなさい(マタイ6;14)。祝福しなさい(マタイ5:40-41、ローマ12:20)。」と命じています。しかし、それでも赦す気になれない、愛する気になれないというほど、傷ついている人もいるでしょう。ある人は、「もし土下座して、心から悔い改めの謝罪を述べるなら、赦してやろう」といった気持ちになったりします。しかし、これでは聖書の語る赦しではありません。おそらく、その人が言いたいことは、「あなたは私のプライドと自意識が傷つけた。あなたは私の心を元通りにし、虫のように小さくなって私に謝罪し私を尊敬し、そして私の傷ついた心を高く高めなればならない。そうしたら、気持ちがましになって、あなたを赦してやろう。」 その人は内面が傷つけられた時、どのように心を癒すことが出来るか、神様の方法をしらなかったのでしょう。そして、自分を傷つけた人々から、いやしを取り返そうとしてしまうわけです。
『1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。“父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。”」』(ルカ11:1-4)
この箇所は、「主の祈り」と呼ばれている祈りが出てきます。一般にそう呼ばれていますが、正確にはイエスが「弟子たちにこのように祈りなさいと示された祈り」ですので、「弟子たちの祈り」と呼ばれたほうがふさわしいかもしれません。4節には、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」とあります。神様に赦しを願う祈りですが、ちょっとやっかいなフレーズが、すぐ後についています。「私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」「私に罪を犯した人々を全員赦します」です。英語では、「for」<原典ギリシャ語では「gar」>が使われて、「私たちが赦しますように」「私たちも赦しますので」、「私たちをお赦し下さい」というつながりになります。「私はあの人のことだけは決して許しませんが、神様、私の罪は赦しして下さい」という調子のいいお祈りではないのです。もしこの「私たちは全員赦しますので」という節がなくて、「赦してください」だけでしたら、どれほど楽ちんなお祈りだったでしょう。しかし、このところから明確に、私たちは「人々を赦すように召されている者」である事を認識します。
“You are my King”というワーシップソングがあります。 I am forgiven, because you are forsaken I am accepted, for you were condemned I am alive and well, your spirit is within me Because you die and rose again 「あなたが捨てられ、わたしは赦されています。あなたが裁かれ、わたしは受けれられています。あなたの霊が私のうちにあり、私は生きている。なぜなら、あなたが死んで甦ってくださったから。」 イエスが捨てられて裁かれた故に、私たちは赦され、受け入れられ、ここに生きています。これほどの愛はありません。私たちは赦され、赦しを経験し、そして他の人々を赦すのです。私たちは神様の赦しを経験している民です。人々を赦す民です。
今まで「神様の愛を私に注いで下さい」と祈られたことはありますか。神様は「隣人を愛せよ」と命じられるお方である前に、「あなたを愛している」お方です。神様はあなたを神様の似姿に創造し、あなたに人生の目的と計画と意義を与え、あなた自身に価値を与え、愛において導かれるお方です。神様は、あなたが神様から罪によって遠く離れている状態を望まれずに、むしろ悔い改めて帰ってくることを願われています。そして、新しい愛の関係をあなたと持つことを願われています。その為に、御子イエスキリストをこの地上に送り、人々の罪を身代わりに背負わせました。イエスの身代わりの愛と死によって、私たちの罪は取り除かれ、赦され、神様との新しい関係を持つ道が開かれました。神様はあなたの過去の罪を赦し、将来において永遠の命の約束を与えられているだけではありません。神様は「現在」にも関わりを持たれるお方です。神様は、今この時代、この日この瞬間、あなたと愛の関係を持つことを願われています。神様はあなたに語ることを願われています。あなたの祈りを聞くことを願われています。あなたと会話をすることを願われています。神様は、私たちを「私の子供」と呼び、愛を注がれるお父さんのように頼もしいお方です。この神様の愛をあなたの心と人生で経験しているでしょうか。
人が私を傷つけ悪を行う時、ひとり静まりこのように祈ります。「神様、彼は言っていることしていることが分からないのです。どうぞお赦し下さい。そして、私が彼を赦せるように愛を与えて下さい。私にあなたの大きな愛を注いで下さい。私は彼を赦すことを選びます。私はあなたの愛を受け、その愛を他の人々に流したいです。」 人を赦すことが難しい時、静まって神様に祈りましょう。赦すための愛を神様から受け取りましょう。神様の愛に圧倒される時、私たちの怒りや赦さない心はその愛によって洗い流されます。神様の愛を受け、神様の赦しの愛を経験し、人を赦す民として生きていきましょう。
JKUC2004⑧
<目次> <韓国ハビタット2004の報告>(2004年8月13日 第150号) <Family Reunion: ヘブル11:29-12:2>(2004年8月20日 第151号) <You Are Known: エレミヤ1:4-10>(2004年8月27日 第152号)
<韓国ハビタット2004の報告> 今年もサイクリングで韓国を目指し、集中建築を行う2週間を大学生とともに過ごしました。7月28日に青春18切符で広島に向かい出発。広島流川教会に宿泊させて頂き、翌日広島平和記念公園で開会式を行い、サイクリングで下関を目指しました。サイクリングの3日間、天候に恵まれ、雨に合うことなく、夏の暑い日差しの中、ひたすら自転車をこぎました。途中で家建設の為の募金活動を行ない、その必要を訴えました。
ハビタット・フォー・ヒューマニティー(Habitat for Humanity)は、キリスト教NGOで、劣悪な居住環境を改善する為に、ボランティアが集められ世界中で様々な建築プロジェクトが行なわれています。韓国では、Korea Blitz Buildと名づけられて、集中建築が8月の第1週に行われています。日本と韓国合同のサイクリングプロジェクトは、2000年に大学生を中心に始まりました。当時は原爆が落とされた広島と長崎の2箇所から日本のサイクリングチームが出発し、フェリーで海を渡り、韓国人学生と合流して、募金活動を行ないながら目的地に自転車で向かいました。現在、日本チームは広島―下関間、そして韓国チームは毎年違うルートで建築現場までサイクリングを行なっています。
「家建設とサイクリングとどう関係があるのか?」 「なぜわざわざ自転車で行くのか?」 そんな疑問は毎年上がってきます。それを理解する為には、ハビタットがキリスト教のNGOであること、家建設が「隣人愛」の実践としてなされていること、民族や人種を超えて愛し合い助け合うことを通して「和解」の使命を持っていること、新しい若い世代を育てるビジョンからスタートする必要があると思います。歴史的に日本と韓国には痛みの伴う歴史があります。政治や外交でも取り上げられる内容は、2つの民族の心と関係の障害も生み出しています。戦争の謝罪や和解と協力と言う言葉は、どのように実践することによって現実味があるのでしょうか。ハビタットのサイクリングプロジェクトは、新しい世代への一つのアプローチだと言えます。日本人と韓国人の学生が共に自転車で長い道のりを走っていく、疲れて遅れそうなっている友人を励まし、坂道でギブアップしそうな背中を押して登っていく。肉体的に過酷な状況の中で、お互い支え合い励まし合いながら困難を乗り越えていく中で、言葉や文化、歴史や背景を越えて、新しい友情が生まれて行きます。そういう経験を通して、「隣人を愛すること」「神様が造られた一人一人を大切にすること」「愛を実践すること」を学んで行きます。この若い世代へのチャレンジ、友情、和解が、家建設を目的とするハビタットの活動に新しい意義を与えていると思います。
今年のサイクリング期間中、悩まされたのが「台風」の接近でした。四国を通過し九州のそばを通り韓国へ向かうコースが予想されていたからです。そして、下関からフェリーで出発する7月31日にちょうど台風の予想進路が重なっていました。もし1日1便の関釜フェリーが出航しないとなると、下関からどのように韓国に向かうかが大きな問題でした。8月初旬は予約がいっぱいで、キャンセルになった場合は翌日の便に優先乗船されることなく、キャンセル待ちで乗船できるということでした。朝のデボーションで「台風が来ないように。消えてしまうように。無事に韓国に着けるように。」心を合わせてお祈りしました。台風は進路を変えたり、消滅することはありませんでしたが、出航が2時間早まり乗船できました。船内のレストランで食事を取ろうと思って注文したものの、待っている間に気分が悪くなり、ほとんど手をつけられないまま残してしまいました。波の高さは4mで夜8じくらいから大揺れが続き、船酔いする者も出ました。しかし、主の守りの中で、無事に釜山に上陸し、建築サイトの春川(チュンチョン)に行くことが出来ました。
春川での建築は、韓国では初めてのことで、準備が大変だったと聞きましたが、ボランティアのための準備やプログラムは充実して、建築現場に近いところに宿泊所があり、半日春川観光や名物「マックス」「タッカルビ」を食事に頂きました。1週間の建築期間は、韓国では猛暑と報道される日々が続きましたが、健康を害するものもなく守られて作業を行なうことが出来ました。家は完成するまで行きませんでしたが、続きは次のボランティアが来て完成させていると思います。
<Family Reunion: ヘブル11:29-12:2> 日本には、お盆休みか新年に帰省して田舎に家族が集まる伝統がまだ残っていますが、アメリカではサンクスギビングやクリスマスが家族が揃う季節だと言えるでしょう。KUCでは、6月にさよならサンデーを持ち、多くの信仰の家族と別れなければなりませんでしたが、今9月を目前にして、新しい家族がKUCに加わっています。信仰の家族がもう一度一つとなり、信仰によって、ビジョンによって、新しい歩みを始める時になっています。
「29 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。30 信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。31 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。35 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、38 ――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。 12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
ヘブル書11章を開けば、「信仰によって」という言葉から始まる節が18節出てきます。天地創造以来、「信仰によって」なされた業と信仰の勇者の列挙があります。また、信仰によって「得た」人々だけではなく、信仰によって証しされたが約束されたものを「得なかった」人々、すなわち信仰の故に苦しめられ、迫害され、殉教して行った信仰者のことも記されています。そこには、約束されたものをこの地上の生活で得ている人々も得なかった人々も、「信仰によって」歩む人生は、その「信仰」がその人自身を証することになります。ヘブル書の著者の励ましは、私たちが信仰によって歩むなら、今約束されたものを得ているが、得ていないかを問題にするのではなく、これまで多くの信仰者がそうであったように、信仰のレースをイエスに目を離さないで走り抜くこと、信仰によって歩み通すことです。
1968年に開催されたメキシコ・オリンピックで、マラソンに出場したタンザニア代表のジョン・スティーブン・アクワリ選手のことを、デイリーブレッド(2004/4/29)で読みました。彼は最下位でゴールしただけでなく、最も遅いタイムでオリンピックマラソンを完走した選手でした。
「アクワリ選手はレース最中に負傷し、包帯で巻かれ血まみれになった足を引きずって、スタジアムに戻ってきました。他の選手たちはゴールしてから1時間以上が経過していました。アクワリ選手がついにゴールした時、スタンドの観客席には人影はほとんどありませんでした。けがの痛みをこらえて走り続けたのは何故ですか、と記者に尋ねられ、彼は答えました。『私の国が、私をメキシコ・シティーに送り出してくれたのは、競技のスタートを切る為ではありません。ゴールする為です』」
私たちの信仰生活は、ゴールを目指した歩みでしょうか。それとも、スタートを切ったことに満足している生活でしょうか。多くの日本のクリスチャンにとって、信仰を持つことや洗礼を受けることは、大きなチャレンジと決心だったと思います。日本文化と現代社会、伝統と世俗主義、恥の文化と自己中心性が混在している中で、目に見えない神をイエスキリストによって個人的に知り、さらに聖霊によって導かれて歩む生活は、一言で説明しえない深さがあります。理解と受容を求める日本的人間関係では、信仰を持つこと自体が大きな障壁となることもあります。それゆえに、それを乗り越えて、信仰生活を始めるに至るまでに多くの不安とストレス、葛藤を通り抜け、実際に信仰のレースが始まったときには、もう疲れてしまっていることがあります。しかし、スタートを切るためではなく、ゴールする為にクリスチャン人生があることをいつも覚えている必要があります。
多くのクリスチャンにとってスタートを切ったものの、何がゴールで、どちらの方向に行けばいいのか、走るといってもどのように走ればいいのか、何もわからないまま過ごしている場合もあります。牧師や他のクリスチャンに相談して、クリスチャンとしての歩みについて理解を深める必要があるでしょう。聖書を読み、日々の祈りの中で、導きを知り従って行く事が大切でしょう。さもなければ、よく分からないから「時々礼拝に出席して、何か奉仕か手伝いをし、おしゃべりが出来る人を見つけ、献金もしていれば…」という所に落ち着いて何十年も単調で無味乾燥な信仰生活を送ることになります。確かに信仰を持てば、その瞬間にすべて判るというようなことではありません。むしろ、「私の信仰のゴールとは何か。どちらの方向にどのように走ればいいのか。どのような走り方を神様は導かれているのか。」と祈りをもって探求を始めることが必要です。神様は信仰の成長に応じて、的確にまた明確にその導きと目的、さらには具体的な生活の指針を教えて下さるお方です。
パウロが死を前にして、このように書いています。「5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。7私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(2テモテ4:5-7) パウロが信仰のレースを走りぬいたように、私たちも私たち自身に与えられている信仰のレースを走り抜きたいと願います。
<You Are Known: エレミヤ1:4-10> 「4 次のような主のことばが私にあった。5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」
「あなたのことを一番良く知っているのは誰ですか?」 あなたの両親でしょうか、伴侶でしょうか、友人や先生でしょうか? もし誰も知っている人がいない集まりやパーティーに参加することになった場合、どんな心境でその場にいるでしょうか。新しい友達を作れるとわくわくするタイプでしょうか。それとも、心細く感じ「他の人は私をどう見ているのだろう」と不安になるタイプでしょうか。初めて教会に来る人にも2パターンあります。初めてでも堂々としている人と遠慮がちにしている人と。どちらが優れていると言う訳ではありませんが、教会はどのような人でも歓迎して迎えたいと思っています。その為に、迎える側、教会のひとり一人は、初めて来られる人々がどんな気持ちで、思い切って教会の門をくぐっているかを理解して、声をかけていく必要があります。
私たちには『自分を知ってもらいたい』という欲求があります。そして、自分を知ってもらっている所から来る『受容(Acceptance)』を必要としています。(仲良しグループが固まって、それが行き過ぎて他の人には排他的で疎外感を与えるグループになってしまうのは、この欲求が強いグループの場合と言えるでしょう。)受容がある所に人々は集まります。もし受容が教会にあるなら、その教会に行きたいと思います。もし受容が小グループになるなら、そのグループに集いたいと思います。一方、『自分』を受容してくれない場合、もしくは拒絶のメッセージをもらう場合は、どんなに理想的でいい所でもそこには行きたいとは思わなくなります。
『一生懸命、この人を受容しようとしましたが、私には出来ません』という人とも出会います。愛そうと思っても愛し続けれない、受け入れようと思っても受け入れ切れない難しい人や問題を抱えた人と出会います。そうして初めて、私たち自身の愛や受け入れには、限度があったことに気付きます。今日の聖書箇所では、神様ご自身がエレミヤに対して、「あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り(Before I formed you in the womb I knew you)」と語られています。生まれる前から知っているというのは、どういうことでしょう。人には、知識の量においても、時間においても、愛においても、場所においても限りがあります。しかし、神様は、時間を越え場所を超え、私たちのすべてをご存知のお方です。そのお方が、私たちを無限の愛で愛して下さるのです。
神様はまた「あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」とエレミヤに語られています。同様に、私たちについても、神様は個人的に私たちのことを知り、私たちを聖別し、使命へと定められているのです」。私たちは、偶然生まれて来た訳ではありません。神様が目的を持って、生命を与えられているのです。私たちは、人に無視され価値のない存在ではありません。神様は私たちが生まれる前から私たちのことをご存知です。私たちが生きている目的、生かされている理由、存在している価値と意義を知るなら、私たちの人生は輝きを放ちます。その為には、まず神様を知ることから始めなければなりません。自分の思いや願いを中心に人生を形成するなら、それは自分を中心とした人生形成となります。そこには本来の目的や意味、理由が存在しないことになります。存在するのは、自分が考えた目的と意味、理由です。
一昨年、リック・ウォレン牧師によって書かれた「Purpose Driven Life」という本が出版され、全米で1500万部が読まれ、世界40カ国以上の言語に翻訳されました。日本語訳も7月に完成し、「人生を導く5つの目的」というタイトルで発売されています。WOW(水曜日の女性の集い)でも9月からこの本をテキストに学びが開始されます。その本の初めの7章は、私たちの存在理由と目的について書き下ろされています。すべてのクリスチャンが読むに価する1冊です。ぜひ教会オフィスでお求め下さい。今後、日本語バイブルスタディーやホームグループで共に学んでいく計画です。
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目次 <Throwing a Banquet: ルカ14:1、7-10>(2004年9月4日 第153号) <Count the Cost:ルカ25:-33>(2004年9月11日 第154号) <When God Changed His Mind:出エジプト32:7-14>(2004年9月17日 第155号)
<Throwing a Banquet: ルカ14:1、7-10> これまでにパーティーを主催する経験をしたことがありますか。何から始めるでしょうか。家を片付けることから始める人、ゲストのリストを作ることから始める人、ある人はまずパニックになることから始めます(ジョーク)。楽しみながら出来る人もいますし、何をしたらいいのか分からずに混乱とストレスを体験する人もいます。今日の聖書箇所では、結婚式の披露宴に招かれた時のことが、たとえとして語られています。
「1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。7 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
1.仕える心と謙遜さ ここを読むと、この世でのクリスチャンの生き方や態度についての原則を学ぶことが出来ます。それは仕える心と謙遜さです。決して権力や地位から来るものではありません。学歴や留学経験、役職や肩書きによって支配されるものではありません。クリスチャン暦(何年間教会に来ているとか洗礼を受けてから何年とか)や教会の奉仕(サンデースクールの先生であるとかリーダーであるとか)によって生きるのでもありません。クリスチャンは、牧師も信徒も主の前に仕える心と謙遜さが必要です。
自分のことだけで忙し過ぎていませんか。周りを見渡す余裕はありますか。「人のことも考えようとは思っているものの、実際振り返れば自分のことだけで精一杯。自分を維持すること、自分の仕事をこなすこと、夫婦・親の責任を果たすだけで手一杯」なんていう状況に陥っていませんか。私たちは時々(もしくはいつも)、そういう状況に自分自身を見つけることがあります。「クリスチャンとして行ないたい理想」と「日々の生活に追われている現実の自分」のギャップを見つけます。後になって後悔したり、人から言われて初めて気付かされることが起こります。もしそれが起こったりそういう状況にある自分を認識出来たら、幸いです。その瞬間が気付きの時であり、変化の時だからです。
まず、神様との特別の時間をもちましょう。じっくり聖書を読む時間、心を注ぎ出して神様に祈る時間、悔い改める時間を持ちましょう。 ゼパニア1:7 「神である主の前に静まれ。」 神様の前に謙りましょう。神様は謙る者を決してさげすまれません。 1ペテロ5:5 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」 詩篇51:17 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」 そして、私たちが謙る時、神様ご自身が私たちを引き上げてくださいます。 1ペテロ5:6 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
2.義認の復活の時のお返し 「12 また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。13 祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」 今日の聖書の後半は、どのような人々を食事のふるまいに招くかについて語られました。私たちは、普通家族や親族、親しい友人、もしくはご近所の知人を招いて食事会やパーティーを開くことがあります。それ自体は間違ったことではないですし、交友を深めるには大切なことです。しかし、ここでは「私たちは与える存在、祝福する存在に召されている」ことが語られています。人々から受けるためでも、ギブ&テイクでもありません。主は、 「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒20:35) と語られました。また、「あなたがたは、自分自身が愛される為に、あなたの隣人を愛しなさい」とは書かれていません。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ19:19)です。まして、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)という時、即座に敵からの見返りを期待できません。愛し与え祈るのです。 マタイ5:42 「求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」
また、『与えること』と『そのお返し』の関係について天の真理が解き明かされています。「人々に施したりもてなしたり食事の振る舞いをした時、招いた人々がお返しをしなかった場合、出来ない場合は、幸いです。なぜなら、今お返しをもらわない代わりに、天において義認の復活の時にそのお返しが頂けるからです。」これは、山上の垂訓でも語られた真理です。
マタイ5:46 「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。」 マタイ6:1-4 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」 隠れた所を見ておられる神様との関係の中で生活しましょう。
<Count the Cost:ルカ25:-33> 「さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。26「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ25-27)
ある教会では、神学校に行き聖職者、牧師、伝道者になる人々について「すべてを捨てて主に従う」「自分の十字架を負って従う」ということばで表現することがあります。献身者として生涯を主に捧げて歩もうとする人々に対して決心を確かめる言葉としても用いられます。今日の聖書箇所で、大勢の人々が「イエスと一緒に歩いていた」と書かれています。一見多くの人々がイエスに従っているように見受けられるシーンですが、「従う」ということと「ただ後にぞろぞろ付いて行く」こととは、違うということを表わす為に、筆者は「歩いていた」(25)と表現したのかもしれません。
もちろんその群衆の中にも真剣にイエスの弟子になりたいと思って付いて来ている人々もいたと思います。イエスが群集に振り返って語られた言葉に、どのような思いと決心で付いて来ているかを見定める基準が記されています。「イエスに従う者、イエスの弟子になる者」となる為の厳しい、また真剣な真理が込められています。26節は愛情の聖別、優先順位の確立についての言葉です。ここでイエスは弟子として従ってくるためには、自分の両親にケンカを売って憎しみあう関係になるように、自分の家族に対して家庭暴力を起こして憎むようにと勧めているわけではありません。人生と生活の優先順位は何か、何を一番としてあなたは生活し人生を送りますか、という問いかけです。多くの人々は、「家も家庭も親戚付き合いも、また先祖のこともある。会社での立場や面子もあるし、イエス様や宗教事は、2番目3番目、他の人と問題の起こらない程度にやっておこう」と考えます。しかし、このイエスの問いは、「あなたは私をあなたの人生のプライオリティー、最優先事項、にしますか。自分の両親や家族、あなたが大切にしている何よりももっと大切だと言えますか」です。「父、母、妻、子、・・・自分のいのちまでも憎む」というのは、聖書に出てくる誇張表現ですが、「何よりもイエスを愛し従うか」という問いを強調することになります。聖書に立ち返れば、一般にこの聖句を誤解してしまう人々の思い込みは解けます。
「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト20:12) 「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22) 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)
両親や夫婦関係、子供のこと、隣人、さらには敵対するする人に対しても、愛を持って行動しなさいと聖書は記しています。その理解のうえに、この聖書箇所に戻ってくると、「それ以上にイエスを愛するか」という弟子として従う為に究極の質問が掛けられます。
私たちにとって、自分のいのちは大切です。決して粗末にするものではありませんし、そのように聖書が勧めている訳ではありません(もし命が大切でないのなら、「殺してはならない」という律法は存在しません)。むしろここでは一番大切な自分の命や人生を捧げる程、本気でキリストに従うかという問いになります。そこには、自分の残りの生涯すべてを捧げて従うという、制限なしのコミットメントがあります。
しばらくの間だけイエスに従う人をご存知でしょうか。物事が上手く行っている時だけ、もしくは慰めや励ましを人々から必要とする時だけ、イエスに従う人々、教会を訪れる人です。たとえ洗礼を受けたクリスチャンでも、一時的、もしくは季節的(クリスマスとイースターだけ等)に自分がクリスチャンであることを思い出すのは、「イエスを自分の主」とする代わりに、「自分がイエスの主」となって「神様は自分の人生をスムーズに送るための道具」になってしまっているからです。
「28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。」(ルカ14:28-34)
ここに続く「費用を計算する(count the cost)」は、弟子として第一にすること(26-27節)をせずに弟子になった場合、どうなるかをたとえで表わしています。それはキリストの弟子として人生を全う出来ないということです。途中で弟子としての歩みを放棄してしまうことになります。それまで信仰者として積み上げてきたものが無駄になります。後で大恥をかくことになります。今日でも、人生の途中で困難や悲しみ、迫害や試練が訪れる時、キリストを離れる人々は何と多いでしょう。お金や財産、愛情や名誉の誘惑によって、キリストを第一と出来ない人々は何と多いことでしょう。塔を建てるためにどれだけの費用(犠牲)が必要かを知らないで着工するのは、ある高層ビルを建てようとして、土台の部分だけで何億というお金が必要なのがわかって、それから上に高層ビルは建てられないとあきらめるようなものです。それなら初めから塔(高層ビル)を建てようとはしない方が利巧といえます(30-32節)。キリストの弟子として従う人生の建築をするときに、同時に私たちは犠牲を伴うこと、捨てなければならないものがあることをはっきり認識する必要があります。
キリストに従うことは素晴らしいことですが、決して容易な道ではありません。キリストの弟子となるということは、気軽なものではありません。キリスト御自身は鞭打たれ、十字架に掛けられました。その御足の後を辿る事を意味します。伝承によれば、12弟子の内10人までが殉教の死を遂げたとされています。当時、イエス御自身が受け入れられず処刑されたように、クリスチャンも様々な理由から迫害を受け、多くの弟子が殉教の死を遂げました。実際に十字架にかけられて死んだ弟子もいました。「自分の十字架を背負って従う」とは、当時その言葉を聞いた弟子にとっては、キリストの福音を伝えることが、やがて人々からの迫害を受け殉教の死(十字架)を覚悟しつつイエスに従うことを直接意味しました。
キリストの弟子となる為には、すべてを捨ててキリストの従う人生の大決心が必要です。そして、キリストを中心に新しい生活を送ることです。もし私たちが自分の所有物や財産を主張し続けるなら、私たちの人生はそれらに釘付けです。しかし、それらを手放すなら、もっと自由に生きることが出来ます。それは、所有権を主に放棄することです。自分の願望、人生計画、結婚、経済、財産、所有、関係、将来、時間、こだわり、嗜好品等をすべて主にお渡しすることです。そうすれば、主は新しい視野を与えて下さり、すべてのものを自分の為ではなく、人々への祝福と主の栄光の為に用いるようにさせて下さいます。たとば、自分の貯金通帳を眺めた時に、それでどのように人々を祝福し、主に栄光を返すかを思い巡らします。ある人は、海外の孤児院や飢餓援助に用いる人もいます。自分の余暇や残りの人生の時間を見て、自分を楽しませる時間ではなく、主の為に用いたいと願います。
⇒ ワークその1:自分の父、母、妻(もしくは夫)、子、兄弟、姉妹、財産、名誉、友人、自分のいのちの中で最も大切なものから順から、並べ替えてみてください。 ⇒ ワークその2:主イエスをその順序の中に入れるとすれば、どこに位置されますか。
<When God Changed His Mind:出エジプト32:7-14> 「32:7 主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」9 主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」11 しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。12 また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」14 すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。」
イスラエルの民は神様の奇跡と不思議な業を何度も目の当りし、エジプトから脱出してここまでやって来ました。しかし、モーセが山の上に上り神様からの律法を頂いている間に、何と待ちきれなくなって、自分たちで金の子牛の像を作って、礼拝を捧げていました。真の神様が現実的に介入し助け養い導き出して下さるという直接的な経験をしていたにもかかわらず、イスラエルの人々は偶像を作って拝んでいました。
私たちの信仰生活を見つめ直す時に、同じようなことを発見しないでしょうか。神様に助けられ導き出され、神様の恵みの業に預かりながら、時間と共に忘れ去り、唯一の神ではなく多神教の神を受け入れ、持ち物や収入、自分のことが中心になり、神様は意識の外に押しやっていることはないでしょうか。一度は信仰告白をしたものの、その後は何となく普通の今までと同じ生活に戻っているということはないでしょうか。もしそうなら、私たちは悔い改めて、そのような生活から離れなければなりません。神様中心の生活に戻る必要があります。なぜなら、神様は私たちに福音を委ね、恵みの使者として私たちをこの地に遣わされているからです。私たちを通して、私たちの言葉や生活、態度や人生を通して、イエス・キリストの福音をすべての人々に分かち合うことを望まれているからです。
義なる神様は、彼らに不信仰と偶像礼拝の心を裁かれようとしました。しかし、モーセは神様をなだめて思い留めるように嘆願しました。これを「とりなしの祈り」といいます。間違ったことをした民に憐れみをかけて、赦してくださるように神様に訴えています。とりなしの祈りは、他の人々の罪を被う祈りでもあります。義なる神様に即座に罰を下さないで、もうしばらく猶予を与えてくださいという祈りです。これは、主イエス様も私たちの為に天においてとりなして下さっています。 ヘブル7:25 「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
神様が民に対して下そうとしている裁きについて、それを神様の権威でやってしまうことはできたはずです。しかし、裁きを下す前にモーセと話をしました。モーセに神様ご自身がしようとしていることを話されました。そこに神様とモーセの親しい関係を見ることが出来ます。主イエスはいつも父なる神様と祈りの中で交わりを持っていました。アブラハムやノア、ヨセフ、ダビデにも神様は語られました。神様は自分勝手に自分の思い通りのことをするお方ではなく、私たちとの関係を求められているお方です。神様は私たちと話し、交わりを持ち、親しい関係の中で共に歩むことを望まれています。私たちが神様の前に謙遜と従順をもって御前に行く時、神様は愛と赦しと憐れみの御手をもって、答えてくださいます。私たちが神様と愛の関係の中に生きる時、私たちはモーセのように信仰のリーダーとして人々をとりなし導くことが出来ます。
Home Group Questions(ホームグループ用質問リスト)を以下に付けました。家族や友達と質問について話し合い、お互いの信仰を励まし合いませんか。 ◎ Home Group Questions 1. 今まで両親をとても怒らせた経験はありますか。(Ice-breaker) 2. 神様に御心を変えて下さいと祈ったことはありますか。嘆願して祈ったことはありますか。(God hears the prayers and pleads of the faithful) 3. 変化を起こすリーダーとは、どのようなリーダーでしょうか。(Leaders can make a difference) 4. 神が行動される基準は何でしょう。(God chooses to act in compassion and forgiveness)
JKUC2004⑨ⅱ
目次 <A Dishonest Example:ルカ16:1-13>(2004年9月23日 第156号) <Learning Faith:2テモテ3:14-4:5>(2004年10月1日 第157号) <祈りと聖書の時間を見つける10の方法>(同上) <効果的に聖書を読む方法>(同上) <効果的に祈る方法>(同上)
<A Dishonest Example:ルカ16:1-13> 「1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、6 その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。12 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
ちょっと読むだけでは理解困難な聖書箇所です。まず、解釈をするためにいくつかのポイントを押さえて置きましょう。 1)もしあなたが会社の財務や会計の責任を負っているのなら、この「不正な管理人」が行なうようにせよと文字通りに勧めていないことは明らかです。たとえは神の国を説明する為のものです。直接文字通りに行動することを指していません。この世のことよりももっと大切なものへ関心をひきつけています。 2)不正な管理者、不正な裁判官、放蕩息子など異議を唱えたくなるたとえは、私たちへの神様の愛や恵みを物語ります。不公平に思えることでも、そこに裁きではなく愛や恵みの結末を見出すことができます。そこに神様の無限大の愛の深さを感じることが出来ます。たとえば、主人は自分の財産を目減りさせた不正な管理人をほめられています。不正を行なったと裁かれていないのです。 3)文脈を理解する。ルカ16章全体のテーマとして、この世の富と永遠での結果について述べられています。14節からは「お金好きのパリサイ人」「お金持ちと乞食のラザロの死後の違い」について書かれています。
この物語のポイントは、管理人が不正であったことではなく、彼が将来を保障するためにこの世のものを用いて賢く抜け目のない行動を取ったところにあります。この世の物質的富と次の世の関連性に目を向けさせています。私たちの富や財産をどう用いるかは、私たちの将来を決定します。主イエスは弟子たちに、同じようにするように教えています(9)。同じように、将来を保障する為にこの世の富や持ち物をどのように取り扱うかを教えています。私たちが所有しているものはすべて神様から与えられたものです。神様からの贈り物として、私たちは命や持ち物を受け取っています。そして、私たちに与えられたものすべてを、善き事や人々の為に用いる責任を負っています。自分の財産や持ち物への姿勢や取り扱いは、この世のことだけではなく将来にも及ぶことが記されています。私たちはこの世とは全く違う価値観で人生を見る必要があります。どんなに貯金があって財産があっても天国には持っていけません。しかし、捧げて失ったように見える財産やお金は、実は天で数えられているのです。この世と天の関連性を見る新しい目が必要です。John Wesleyは“Make all you can, save all you can, give all you can, do all the good you can, for as long as you can…”と言いました。「神と富とに仕えることはできない」という主の言葉にどのように応答しますか。
◎ Home Group Questions 1. 不正な管理人の不正だと思う所、賢いと思う所を対照リストに書き出して見ましょう。
2. 「小さな事に忠実、大きなことにも忠実」(9-12)とは、何を意味しますか。
3. このたとえを通してイエスが教えようとしていることは、何でしょうか。
4. (11)あなたの富・お金に対して忠実であるとは、何を意味しますか。
<Learning Faith:2テモテ3:14-4:5> 「14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。[ 4 ]神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(2テモテ3:14-4:5)
読んだ方がいいと分かっていてもなかなか聖書に手が届かない人は多いと思います。また、一人で読んでも分からないと尻込みする人も多いと思います。聖書を読む習慣が生まれた時からあるならどれほどよかったかもしれませんが、私たちは聖書を読む習慣を自ら得なければなりません。3か月分が1冊になったアッパールーム(300円)やデイリーブレッド(自由献金)などはとてもよいペースメーカーになります。また、最近日本語のスタディーバイブルが発売されました。背景や語句の説明、解釈が欄外に書かれています。英語では、すでに多くのスタディーバイブルが出ています。NIV Study BibleやLife Application Bibleなどがお勧めです。
この習慣を獲得する為には、本質が必要です。喉が渇いた人には水が必要です。空腹な人には食べ物が必要です。同様に御言葉に飢え渇いている人は御言葉が必要です。アピールしなくても御言葉に向かいます。聖書朗読について書かなくても聖書を読み、祈りについて書かなくても祈りが生活の一部となり、デボーションのことを書かなくても神と共にすごす一時なしに一日を過ごせません。そこには心の動機、魂の必要が存在しています。私たち自身への質問は、神様の御言葉に飢え乾き、慕い求め、神様を本当に私たちの人生に必要としているのかという質問です。義務的に日曜礼拝に出席することは退屈であるのと同様に、動機のない聖書朗読は1日も続きません。私たちには「なぜそれをするのか」「本当に喜びを持っているのか」を問う必要が出てきます。もちろん初めて教会に来られる人、聖書を読む人には、初めは退屈と感じてもしばらくチャレンジすることをお勧めします。その中で自ら本質を見つけてほしいからです。一方クリスチャンだけどもマンネリ化している場合は、ちょっと立ち止まって、自分と神様との関係や距離感を考えて見てください。仕事の忙しさや不安や心配事によって、大切な神様の関係が端に寄せられているでしょうか。父なる神様は私たちを待っておられるお方です。もう一度、神様との深い関係に戻って来る事を両手を広げて待っておられます。「谷川の流れを慕う鹿のように」私たちも神様を慕うように召されています。
4章2節から御言葉の宣教について述べられています。それは「真理」を人々に伝えることです。もしイエスキリストや聖書の話が「道徳的ないいお話」止まりなら、多くの殉教者が命を犠牲にしてまで人々に福音を伝えることはなかったでしょう。彼らは「真理」を発見し分かち合ったのです。私たちの信仰も「道徳的いいお話」から成長して「福音の奥義」に根ざす時に新しい命と躍動を体験します。伝道や宣教は、宗教的「布教」ではなく、それぞれの信仰から溢れ出る愛と喜びとなります。自分の宗教や教えを押し付けるのではなく、愛と受け入れと赦し、癒しと平安、真理と恵みを受け取った者が、自分だけではなく他の人にも同じ祝福を分かち合いたいという愛を動機とした行為である必要があります。
◎ Home Group Questions 1. 動作学習?視覚学習?聴覚学習?あなたはどのタイプの学習者ですか。説教を聴くことによって?聖書や霊想書を読むことによって?音楽や歌によって?会話によって?ステンドグラスや絵画によって?十字架によって?聖餐式のパンやぶどう酒、洗礼の水によって?どのように信仰を学びますか?
2. 理想的にはどのように信仰を学びたいですか。あなたのスタイルにあった学び方とはどのようでしょうか?
3. あなたは自分の聖書を持っていますか?本棚にしまったままですか?聖書を開く頻度はどうですか?なぜ聖書を開きにくいのでしょうか?
4. 聖書は何に対して有益だと書かれていますか(16)?その目的は何でしょうか(17)?あなたは十分に整えられることを望んでいますか?
5. 4章2-5節には、パウロは「御言葉を宣べ伝えること」を命じています。しかし、一方でクリスチャンが信仰を伝えることに対して、反対の立場に立つ人は、「なぜあなたはあなたの神を私に押し付けるのか?」「あなたに私の宗教の自由を奪う権利はない」「自分の神だけが正しいという立場は間違っている」と言います。その意見に対して、どのように答えますか?
※ テーブルに聖書通読の手助けとなるプリントが用意されています。プリントには52週聖書通読表の他に、デボーションを行なうにあたっての手助けになるガイドラインが記されています。以下の<祈りと聖書の時間を見つける10の方法><効果的に聖書を読む方法><効果的に祈る方法>はそのプリントの日本語訳です。
<祈りと聖書の時間を見つける10の方法> 1. 小型聖書を電車に乗る時や待ち時間がある時には携帯する
2. 待ち時間がある時、自分自身や他の人々、世界の為に祈る
3. インターネットやEメールを利用して聖書朗読やデボーションを行なう
4. 毎日15分間、祈りと学びの時間をスケジュール帳に記入する
5. 聖書朗読のCDやテープで聞く
6. 15分早めに目覚ましを鳴らす
7. 電子手帳(PDA)用の聖書とデボーションの手引きを利用する
8. 子供や伴侶と聖書と祈りの時を持つ
9. 一人で運転をしている時を祈りや御声を聞く時間とする(ただし目を閉じないように)
10.少なくとも1日に一回早めに約束の場所に到着し、神様との関係の時間として過ごす
<効果的に聖書を読む方法> 1. 読みやすい訳の聖書を購入して下さい。英語では教会で用いているToday’s English VersionかNew International Versionなどは易しい文体です(日本語では新共同訳か新改訳がスタンダードですが、分かりやすく書き下ろされているリビングバイブル訳はとても読みやすいです)。
2. 計画性を持つこと。<聖書を読もう>を使えば3年で、52週聖書通読表を用いれば、1年で読むことが出来ます。
3. 注解書を購入して下さい。様々な聖書注解書がキリスト教書店で販売されています。教会図書にも何冊かあります。日本語では高価ですが英語では30ドルくらいで簡単な注解書が手に入ります。
4. パートナーを得ること。一緒に聖書通読をするために、友達や伴侶と読む。
5. スタディーグループに参加する。週ごとに行なわれている様々な聖書の学びのクラスに参加してみる。
<効果的に祈る方法> 1. 時間を設定する。祈りの生活を始める為に大した時間は必要ありません。しかし、その祈りの時間が信仰を成長させます。
2. デボーションガイドを用いること。アッパールームやデイリーブレッド等の他にも、インターネット上に様々なデボーションサービスがあります。
3. ジャーナル(祈りの日記帳)をつける。あなたの祈りや神様の答えを記入する。
4. パートナーを得ること。お互いに祈りの生活をチェックしあう友達を持つ。
5. 祈りには様々な形があることを発見すること。嘆願する祈り、黙想の祈り、聞く祈り、告白、賛美、感謝の祈り、詩篇朗読による祈り等。
JKUC2004⑩ⅰ目次 <Seed Faith:ルカ17:5-10>(2004年10月8日 第158号) <千刈ディスカッション>(2004年10月15日 第159号) <Sharing faith:マタイ28:19-20>(同上)
<Seed Faith:ルカ17:5-10> 「使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」
「信仰を増してください」という願いは、とても信仰深い言葉に聞こえます。しかし、その後の主の言葉から、弟子たちが見ている所と主が見ている所とは違っていることに気が付きます。弟子たちは「信仰の量(大小)」を考えましたが、主イエスは「働く信仰の有無」を問われました。弟子たちは「自分には幾分かの信仰があるがまだまだ小さいから増して頂く必要がある」と考えましたが、主は小さい小さい種である「からし種ほどの信仰でもあるなら」と大小ではなく、存在自体に問いかけています。弟子たちはすでにイエスからの権威を頂いて、各地で病気を癒し悪霊を追い出し、福音を伝える宣教を行なっていました。この弟子たちには「初めから信仰が全くない」ということを意味されなかったでしょう。しかし、福音の奉仕に携わる中で、次第に高慢になりしもべとして「仕える者」としてのミニストリーを失いつつあったのかもしれません。(7節からは忠実に給仕をするしもべのたとえが続きます。主人に仕え、1日羊飼いの仕事をして疲れて帰ってきても、主に仕えることをわきまえているしもべについて述べられています。)主に完全に従う弟子としてではなく、力を持った自分が何かをしようとしていたのかもしれません。自分がすでにクリスチャンであると誇るのではなく、神様に信頼する信仰の有無が問われます。クリスチャンとしての自分の技量や経験に頼らないで、いつも神様に信頼して神様の力によって神様の業を行なうことが大切です。
アメリカ東南部のジョージア州を中心に広がっているkudzuという植物をご存知でしょうか。ツル植物の少ないアメリカでは、工事で発生した裸地などの緑化に苦労していました。荒れ地に生育する植物の1つとしてクズが選ばれ、1876年に日本から紹介されました。茎を挿し木することによって簡単に殖やすことができるので、裸地の緑化に用いられ、当初クズによる緑化は大成功し、飼料としても優秀であったこともあって重宝がられました。その後、クズは大繁茂し続け、家や廃車、看板などをひと夏で被うほどになり、現在では七百万エーカーを被うほどです。ホームページで検索すると、とても興味深い写真が出てきます。 http://www.jjanthony.com/kudzu/
アメリカ東南部のクズの大繁茂は、ちょうど「からし種ほどの信仰があったら」と語られた主のことばを思わせるようです。本当に小さな株から信じられないほどに広がりました。神戸ユニオン教会も1871年に数名のクリスチャンから始まりました。当時の人々は、2004年のKUCを想像出来たでしょうか。私たちもからし種ほどの信仰があれば、神様にあって偉大なことが可能です。
◎ Home Group Questions 1.夏場は1日に1mも延びるというツル植物のクズ。イエス様はもし今日のアメリカ南部のクズを見てたとえを言うとしたら、どのようなたとえを思い浮かべますか。
2.「信仰を増したい」という人に出会ったとします。あなたはどのようなアドバイスを与えますか。
3.「からし種一粒ほどの信仰があれば」というイエスの言葉に、どのように応答しますか。
4.命じられたことを果たしたからと言って誇ることは出来ないと教えています(9)。私たちは神様から命じられたことをしているでしょうか。私たちが奉仕をする時の態度はどうでしょう。
<千刈ディスカッション> 台風22号の接近で危ぶまれた千刈キャンプですが、台風が東に進路を変えた為、千刈に到着後は雨が上がり、日曜日は晴天の朝に恵まれました。マイク牧師のこのような言葉からキャンプが始まりました。「千刈へようこそ。ここまでのドライブはいかがでしたでしょうか。どうぞ楽しみにしてください。今日は信仰を伝達することと伝道範囲を広げることについてお話します。信仰を伝える方法の一つは、語られている文化の言葉で話すことを学ぶことです。ブレントと私がどれほど一生懸命言語を学んでいるかおわかりでしょう。ようやく長いレッスンが役に立ったというものです。コミュニケーションは信仰を分かち合うための欠かすことができない要素です。そして、コミュニケーションには話すことと同様に聞くことも含まれています。ボディーランゲージやしぐさでもコミュニケーションをとることができます。今週皆さんが千刈を去る時には、信仰を分かち合うという意味についてよく理解できていることを願います。また、私たちのコミュニティーとこの世界で宣教することについての理解も増していることを願います。」マイク牧師は日本語で、それを聞いてブレント牧師が英語に通訳するコメディーアレンジになっていました。日本宣教に携わる中で気付かされたことをそれぞれの牧師から聞いた後、グループに分かれてのディスカッションタイムを持ちました。以下の質問を中心に会話が展開されました。
・ 信仰を分かち合うという点で、日本とあなたの母国ではどのような違いに気付きますか。
・ 神の御国にとってKUCが戦略的に重要な場所であるとはどういう意味でしょうか。
・ 信仰を分かち合う点で、最も難しいことは何でしょうか。あなたはその困難を克服したことはありますか。
・ 信仰を分かち合おうとして、誰かに突っぱねられた経験はありますか。どのようでしたか。次回はどのようにすれば良いでしょうか。
・ 一言も話さないで、福音を提示する簡単な方法は何でしょう。
・ どうすれば他の人に伝道することが容易になるでしょうか。
私が参加したグループでは活発な意見交換がなされ、与えられていた時間を超過して話しが進みました。意見を聞く中で感じたことは、どの国でも福音を伝えることは簡単なことではありません。福音を伝える時、誰もが拒絶や批判を受けています。それで「私には無理だ」「この国では不可能だ」と思えば、それで終わってしまいます。福音を伝えることは、愛なしには出来ません。どんなに反対されても個人的に関って、福音を分かち合うことは愛に裏打ちされた行動でなければ、決して続きません。多くの人々は、「宗教的な勧誘だ」「資金集めだ」と誤解します。それはある新興宗教やカルトでは、会員の獲得が「資金集め」と直結している現実と、もし誰かを会員にすると宗教内での階級が上がる「昇進制度」や「救いの条件」が動機となっていることを反映しているものです。しかし、教会内では、人に伝道したところで自分の階級や上がる訳でもそれによって救われる訳でもありません。「収入の為に伝道しましょう」というのも聞いたことがありません。私たちの動機は、救いを人々にも分け与えたいという愛です。神様ご自身が人々を愛しすべての人々に無条件の救いを提供している事実を伝えたい訳です。主イエスも「全世界に福音を宣ベ伝えなさい」と弟子たちに命じられました。そのミッションを私たちもおっているからです。
ある日本人が「日本人は無宗教だ」と言いました。日曜日には教会に行く欧米のイメージ、イスラム教国の断食や祈祷の習慣、ヒンズー教やユダヤ教などを信仰する諸外国の様子をTVで見る限りにおいては、「日本人は特定の信仰によって代表される国」ではないように日本人自身に映ります。しかし、元旦には初詣に行き、お盆には法事があり、お寺での葬儀や地方独自の宗教行事を目にする外国人には、宗教の溢れる国に思えます。確かに日本は宗教国家です。しかし、それは一つの確固たる信仰を保持した国民ではなく、場合と状況で宗教を使い分ける国だといえます。子供の成長を願って神社に七五三のお参りに行く一方で、先祖の供養は浄土真宗、結婚式はチャペルウエディング、手相占いや星占いも日常的なものになっています。
日本人は「宗教にかぶれること」「宗教にのめり込み過ぎる事」にとても注意深いです。一連のオウム事件や法の華三法行の詐欺事件、ライフスペースのミイラ事件、統一協会の悪徳商法などが登場してからなおさらです。また、宗教や霊に対しての不安と恐れも存在します。様々な霊に恐怖感を持ち先祖霊供養は「ほったらかしにすると悪さをするので、定期的になだめておく必要がある、いつも供養している必要がある」という観念が存在しているようです。
極度に宗教を恐れ、また毛嫌いする一方で、宗教を自分の為に用いる(利用する)意識も存在しています。初詣は神社に神が存在し敬う為の行為ではなく、お賽銭と願掛けで「もし神が存在するなら自分の益の為にお金を払って利用する」という態度です。絶対的な神道信仰ではありません。また、結婚式にはキリスト教、葬儀には仏教と使い分けています。この両極端の態度は、日本人が神の主導権を認めないで、自分自身が自分の人生の主権者であり、宗教も霊も神も自分の幸福の為に、お賽銭や供養や祭儀によって利用するという立場に立っているからだと考えます。
そういった日本人宗教観やそれぞれの家や地方の宗教的束縛力を理解することが大切です。私たちは福音を分かち合うという時、強制する訳でも信仰を押し付ける訳でもありません。紹介します。人々が知らされていない真理や世界観を分かち合います。選択はいつも相手にあるので、友人や家族が信仰を持たないといっても、それは伝える側の責任ではありません。あくまでその人本人の信仰の選択の問題です。
神学的に見るならば、その人の内に聖霊が働かなければ、罪の認識も神の存在も現実性も見ることが出来ません。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)とあるように、神様も本人が心の扉を開けることを待っておられるお方です。一人の人が目では見えない神様と出会うということは、まさに奇跡です。その奇跡を体験した人々がクリスチャンとして世界中にいます。そして、ある人は宣教師となって、アフリカ、アジア、中南米、世界の果てへと福音の為に出かけます。人が神に出会うのは神様の領域ですが、その機会を得る為にはまず「聞くこと」「知ること」が不可欠です。「Sharing Faith」は私たちの役割でもあります。
『「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(ローマ10:13-17)
<Sharing faith:マタイ28:19-20> 「19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
「KUCは外国人教会だから日本人はいらない」という声を聞いたことがあります。それは外国人からではありません。可笑しな話ですが日本人からの声です。「あの~、あなたは日本人ではないのですか?」と聞きたくなりました。おそらく「私は日本人だが英語も話せるし教会員だから私はOK、しかし新しく来る英語も出来ない日本人は来てほしくない」という意見だと思います。教会内の外国人クリスチャンは日本人にもっと伝道しよう、教会に招いて歓迎しようとしている一方で、日本人が「KUCに日本人はいらない」と言っていることが滑稽であることを超えて、とても情けなく、また恥ずかしく感じます。もしそのような排他的な経験をし、疎外感を感じた方がいらっしゃったら、心から謝りたいと思います。教会は英語礼拝を行なう超教派のインターナショナル教会であり、インターナショナルには日本人も入っていることを理解して頂きたく思います。教会として、英語だから分からないという理由で福音の恵みからもれることがないように、日本語ミニストリーや日本人牧師が存在しています。英語を学びながら礼拝や日曜学校に参加されてもいいですし、日本語での学びやカウンセリングも用意されています。毎週日曜礼拝には同時通訳者がイヤホンを通して日本語で通訳しているのは、教会内外両方の日本語を話す人々(日本人だけではなく、日本語を話す外国人)に福音のメッセージを伝える為です。
教会の目的は、「イエス・キリストの弟子を作ること」(To make disciples for Jesus Christ)です。それ故に私たちは出て行き、福音を伝え、信徒を整え、キリストにある成熟に導き、全世界に派遣します。私たちは、For usではなく、For othersの教会です。自分たちの為の教会や交わりではなく、他の人々をいつも視野に入れておく必要があります。主イエスもヨハネ10:16で「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」と語られました。「この囲いのに属さないほかの羊」に目を向ける必要があります。KUCでは、アウトリーチバジェットとして、収入の10%を海外や国内の様々な団体や個人のサポートに用いています。さらに私たちの目を外に向けて、主の恵みと福音の中に人々を招くことに力を注ぎたいと思います。
JKUC2004⑩ⅱ目次 <When a field is more than a field:エレミヤ32:1-3a、6-15>(2004年10月22日 第160号) <キリストの愛を伝える12の方法>(同上) <信仰を分かち合う原則>(同上) <あなたのFRANは誰ですか?>(同上) <日本語ホームグループの紹介>(同上) <The Day is Coming:ヨエル2:23-32>(2004年10月29日 第161号) <ハロウィンと教会>(同上)
<When a field is more than a field:エレミヤ32:1-3a、6-15> 「ユダの王ゼデキヤの第十年、すなわち、ネブカデレザルの第十八年に、主からエレミヤにあったみことば。2 そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた。3 彼が監禁されたのは、ユダの王ゼデキヤがエレミヤに、「なぜ、あなたは預言をするのか。」と尋ねたとき、エレミヤが次のように答えたからである。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。それで、彼はこれを攻め取る。6 そのとき、エレミヤは言った。「私に次のような主のことばがあった。7 見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから。』と言おう。8 すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、それが主のことばであると知った。9 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。10 すなわち、証書に署名し、それに封印し、証人を立て、はかりで銀を量り、11 命令と規則に従って、封印された購入証書と、封印のない証書を取り、12 おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、13 彼らの前で、バルクに命じて言った。14 『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。15 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。』と。」(エレミヤ32:1-15)
◎ Home Group Questions 1. 今まで大切にしていたものが、浸水や地震、思いがけない出来事でですべてダメになってしまった経験はありますか。もし自分の大切にしているものが台無しになる経験をしたら、あなたの世界観はどのように変わると思いますか。
2. 裁きの預言は、主の言葉に従わなかった不従順と偶像礼拝(不信仰)の結果として来ています。主の招きに対する不従順や神以外のものに信頼を置くことを神様は嫌われます。私たちのうちにそれらはないでしょうか。
3. エレミヤは「バビロンに勝つことは出来ない」という預言を頂く一方で、「国の再建」の預言も頂きました。神の裁きを待つと同様に、回復の約束も得ていました。憐れみに富む神様は、もう一度回復する希望も与えて下さいます。失敗の後の「刈り取り」を経験した後にある希望について分かち合いましょう。
4. 多くの人々は教会といえば、大聖堂や大きな教会を思い浮かべます。しかし、建物以上にそこにある神の臨在、神と交わりを持つコミュニティー、また神を礼拝し栄光を捧げる人々こそが教会です。単に国際的な英語の社交会ではなく、神の家族とされ御国を継ぐ特権が与えられた者の交わりです。あなたの教会のイメージは、どのように変わりますか。
5. 「畑が(土地としての)畑以上になる」こと、「家が(建物としての)家以上になる」こと、「親切が(行為自体の)親切以上になる」ことについて考えて見ましょう。愛、希望、親切、受け入れ、赦し等を人々に与える小さなことーあなたに出来ることとは何でしょう。
<キリストの愛を伝える12の方法> 1) ランチに友達を誘う
2) 必要な人にチャイルドケアを申し出る
3) チョコチップクッキー一皿あれば...。
4) 電車で席を譲る
5) 励ましの言葉を語る
6) 週末のプランに誰かを誘う
7) 虐げられている人々、弁護を必要としている人々の為に立ち上がる
8) 他の人の趣味に関心を示す
9) 傷ついている人為にそばに一緒にいる
10) 地域の為に時間をボランティアに捧げる
11) 問題を持っている友達の話に耳を貸す (何かよいことをして問題解決を自分でしようとする必要はありません)
12) 好きな本を誰かに貸す
<信仰を分かち合う原則> 1.人々を変えるためではなく、愛している故に、信仰を伝える。あなたが愛されてきたように、人々を愛すること。そうすれば、信仰を分かち合う機会がやってきます。 2.祈りの内に信仰を分かち合う。他の人々の為に祈り、自分自身の為に祈る。誠実で影響力ある証し人となれるように祈る。新しい出会いと興味を持っている人々と出会えるように祈る。 3.自発的に話しかけて来た時は、もっと私たちに話したいということです。彼らの話に耳を傾け、話を聞く用意は出来ていますか。 4.私たちの弱さや傷つきやすい部分も表現することが大切です。質問に対して正しい答えをいつも持ち合わせいなければならない訳でも、愛と憐れみを示す専門家である必要もありません。実際には、「私にはわかりません」という正直さに人々は安心します。 5.神様はいつも私たちの能力(ability)よりも進んで仕える心(availability)を喜ばれます。もし神様の導きにオープンであるなら、神様はあなたをもっと効果的に用いることが出来ます。
<あなたのFRANは誰ですか?> FRANは「友人、親戚、知り合い、近所の人」の英語の頭文字になります。あなたが個人的に知っている人で、教会に来ていない4人の人を思い浮かべてください。 1.Friend(友人) 2.Relative(親戚) 3.Acquaintance(知り合い) 4.Neighbor(近所の人) これから6週間のチャレンジです。 1) 毎日この4人の人の為に祈る
2) この6週間の内に、信頼出来る友人と分かち合って、祈ってもらう
3) 6週間の内に、この4人の中のひとりを日曜礼拝に招待する
<日本語ホームグループの紹介> 先月から日本語ホームグループを始めました。このグループは、週の半ば、共に集い、互いに祈り合い、励まし支え合うことを目指したグループです。主に賛美を捧げ、日曜日のメッセージ箇所から、思ったこと感じたことを分かち合い、メッセージを実際に生活に適応することを励ますグループです。世界的に成長している教会では、ミニチャーチやセルチャーチ、セルグループ、アッパールーム、区域礼拝等呼ばれ、日曜日に大勢の人々と礼拝を捧げると共に、週日に地域的に集い、小グループでの個人的で深い関係を築く場とされています。教会が数において増大する(数的成長)には、同時に小グループでの深い交わり(質的成長)が欠かせません。現在、KUCには、月・水・木・金にバイブルスタディーやWOWで小グループが形成されています。今後、時間的に地域的に既存の小グループに参加出来ない人々にも質的成長の場として小グループを紹介することが急がれます。
「私にはバイブルスタディーのリーダーは無理」ということを良く聞きます。実際に聖書を開いて読む中で、答えることが出来ない疑問がいろいろ出てきて、自分の聖書知識では到底太刀打ちできないとしり込みしてしまいます。実際に聞かれたら困ってしまうような信仰と聖書の質問は、いろいろあるかもしれません。現在バイブルスタディーをリードされている方々は、ある程度の聖書的学びの背景を持っている人かもしれません。そういう人々を見れば、ますます自分は聖書的にも霊的にもリーダーとしては見劣りしているように感じます。しかし、ここでご紹介しようとしているのは、学び中心の小グループではなく、ケアと御言葉適応中心の小グループです。共に集い、賛美し、日曜日の聖書箇所から現実生活への適応について話し合い、祈り合う2-3人から始まって、10人くらいまでのグループです。
ご近所同士の2家族が共に集い、御言葉と祈りの時間を持つなら、その地区にひとつのホームグループが誕生することになります。もし職場が近くてある時間に共に集い、御言葉と祈りの時が持てるなら、それでひとつの小グループとなります。また、家族で御言葉について分かち合う関係を持つことが出来るなら、それで一つの家族礼拝となります。誰でも始めることが出来る聖書的小グループです。主な内容は以下の通りです。
1.賛美(賛美歌・ゴスペル・ワーシップ何でもOK) 2.聖書箇所の輪読 3.礼拝メッセージの感想(日曜日来れなかった人には要約をする) 4.質問リストから分かち合う。リスト以外にもリーダーが付け加えて質問できます。 5.それぞれの祈祷課題を祈り合う
<The Day is Coming:ヨエル2:23-32> 「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。24 打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。25 いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。26 あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。27 あなたがたは、イスラエルの真中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。29 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。30 わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。32 しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」(ヨエル2:23-32)
この世の終わりについて考えたことがあるでしょうか。2-30年くらい前は「ノストラダムスの大預言」やいろいろな終末説が議論されるテレビ番組がよくありました。子供であっても、「1999年まで、後20年後。どうなるのだろうか」と不安になったことを覚えています。1995年には神戸淡路大震災があり、自然の力の恐ろしさと人間の無力感を感じ、数年前には2000年問題といってコンピュータの誤作動が生み出す危険について問題になりました。1999年後からは、「ノストラダムスの大預言」に関するテレビ番組はなくなりましたが、イラク戦争やその後の中東での戦闘、NYや世界の国々におけるテロ等、緊迫した世界情勢には変わりがありません。
使徒の働き2:17-21には、ヨエル2:28-32の引用が出てきます。そして、ヨエルの預言の成就がなされたことをペテロが証ししています。 「2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」
ここで「わたしの霊を注ぐ」という言葉が二度登場します。使徒の働きでは、ペテロが聖霊降臨、すなわちペンテコステの日の出来事を指して説明しています。ある神学者は、「2000年前のペンテコステの日に聖霊が下ってこの預言が成就したから、もう聖霊は下らない」という立場を取りますが、今日世界中の教会でなされている主の業を聖霊の働きを抜きに説明することは不可能と言えます。聖霊は今も私たちに与えられ、降り注がれています。また、注目すべきことはヨエル2:23の「初めの雨と後の雨」という預言です。イスラエルでは、半年の乾季の後、10月の終わりに雨季が始まります。この雨が「初めの雨」で乾季でカラカラに乾いた土地を打つ、滝のような猛烈な雨です。そして、土地が柔らかくなって麦が植えれるようになります。しかし、その後、3月まで続く雨季の間は大雨ではなく、降ったり止んだりの季節を経て、「後の雨」もしくは「春の雨」が再び激しく降ります。その後で、しっかり実を結んだ麦の収穫があります。同じように、2000年前のペンテコステが「初めの雨」とするならば、その後も聖霊が降り注がれ、「世の終わり」もしくは「収穫」を前に「後の雨」が大雨のように降ると考えることが出来ます。現代世界のキリスト教会を見渡す中で、私たちはまさにその時代に生きているのではないでしょうか。
◎ Home Group Questions 1. この世の終わりや終末について考えたことはありますか。人々はどのように考えていますか。
2. 使徒2:17-21にはヨエル2;23-32の引用が出てきます。ヨエルの預言はどのように成就したのでしょうか。
3. ローマ10:12-13にも、ヨエル3:5の引用があります。 「 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」 救いを得ることは難しいでしょうか。何が困難なのでしょうか。
<ハロウィンと教会> 最近ではハロウィンが、ディズニーランドやUSJで紹介されるだけではなく、街中でもオレンジと黒のハロウィンカラーのデコレーションやパンプキンを置くお店をよく見かけるようになりました。変装して家々を歩いてお菓子をもらう日とか、可愛いお化けの出てくる子供のお楽しみ会の日のように、一般に受け取られています。もちろんこれはキリスト教会が始めた文化風習ではありませんが、キリスト教アメリカに国にどうして悪霊のお祭りがあるのか疑問に思う人もいると思います。
ハロウィンは、もともと古代ケルト起源で、秋の収穫を祝い悪霊を追い出す祭りでしたが、イギリスに住んでいたペイガンズ(異教徒)は10月31日は死んだ人の魂が戻ってくると信じ、その魂は悪い霊であり、生きている人たちにいたずらをしたり、悪運をもたらすと信じていました。それゆえに悪い霊を追い払う為にはそれ相応のことをしなければならないと考えました。(何か日本のお盆を思わせる風習がヨーロッパにあったようです。)
1800年代になり、人々がヨーロッパからアメリカに移住するようになると、ハロウィンの風習もアメリカに持ち込まれ、さらに他の国の風習と混ざり合いました。悪魔や幽霊、魔女、悪霊がその夜に現れて、人間に悪さをすると信じる人々は、悪い霊たちを追い払うため、「ジャック・オ・ランタン(カボチャで作られたランプ)」を作り始めました。人々はカボチャに恐ろしい顔を刻み、その中にろうそくを入れました。他にも10月31日を「ヘル・ナイト」(地獄の夜)とか「デビル・ナイト」(悪魔の夜)、「ミスチーフ・ナイト」(いたずらをする夜)と呼ぶ人たちもいるそうです。
ハロウィン(Halloween)という名前自体は、Holy Eveの意味で、古ローマ・カトリック教会が定めた万聖節とも呼ばれる聖徒の日(11 月 1 日:All Saints Day)の前夜という意味です。名前は教会暦から来ている一方で、内容的には「悪霊を追い出す」という異教徒の祭りから来ています。キリスト教文化に悪霊や異教がうまく刷り込んできている一例と言えます。アメリカの福音的な教会では、子供たちをいかにハロウィンの風習から霊的に守るかについて様々な会も開かれています。霊的な影響に対する識別力と知識をもって「ハロウィン」を理解しましょう。(子育てにおける霊的な影響について、JCMのホームページをご参考下さい。http://jcm.main.jp/D_200410_1.gif )
JKUC2004⑪ⅰ
目次 <When Small is Big:ルカ19:1-10>(2004年11月5日 第162号) <The Inheritance of the Saints:エペソ1:11-23>(2004年11月11日 第163号) <日本宗教について>(同上)
<When Small is Big:ルカ19:1-10> 「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
今週、田臥勇太選手がアメリカのプロバスケットボールNBA開幕戦に出場、NBA初の日本人選手としてプレーしたと、ニュースで報道されていました。身長173cmの田臥選手は、普通2m以上あるNBA選手の中では、超小柄です。テレビを見れば、大人と子供の身長差ですが、世界のスーパースタープレーヤーの揃うNBAでプレーすると言うのは、本当にすごい事だと思います。先月は、メジャーリーグのイチロー選手がアメリカの歴史を塗り替える年間最多安打を達成しました。メジャー挑戦の一年目は、「メジャーは甘くない」「年間を通してプレーできる体力があるか」「体が小さい」などの批評もありましたが、体の大きさ以上の偉業を野球史上で成し遂げたことになります。
聖書を読むと、イエス様がエリコの町に来られた時、ザアカイは背が低く、群衆のために見えなかったと書かれています。また、馬鹿にされ軽蔑されていた存在であったようです。しかし、ザアカイは8節に書かれているように、大きな愛の行動を取る人となりました。見かけや体の大きさ、学歴や人の評判を超えて、偉大なことをした人を誰か思い浮かべることが出来るでしょうか。旧約聖書を見れば、少年ダビデは小さいながらも、大男の戦士ゴリアテを倒しました。神様は小さなものを用いて、偉大なことを為されるお方です。神の子イエス様も、世界を治める大帝国の王子として生まれて来た訳ではありませんでした。大工のヨセフの子として、しかも旅の途中の馬小屋で生まれました。また、エルサレムに入城される時も、王の乗る馬ではなく、ろばに乗って来られました。
また、ザアカイは取税人のかしらで金持ち、7節には「罪人」と人々から言われています。ローマ帝国の為に税金を取り立てる取税人は、だまして多めに税金を徴収することもあり、ユダヤ人の中で嫌われていました。しかし、木に登ってイエス様を一目みたいと言うザアカイは子供の心を持っているようにも思えます。そして、イエスの個人的な申し出に応じたザアカイは大喜びで主を招待し、自分の財産を人々に施し、その人生は変えられました。イエスと出会い、イエスを家に招いたザアカイの変化に注目してください。自分の罪やだまし取ったことを自ら認め、告白し、償いを申し出ます。『罪びとだ』と人につぶやかれて、腐ったり怒ったりすることなく、主に目を注ぎ、主の言葉に応答していることが分かります。聖書を通して見る中でも、神様の用いられる人物は、偏見の中で練り鍛えられた謙遜な者、自分の罪を認め悔い改めた者とも言えるでしょう。
ザアカイがイエス様と出会い、救いへ至る話の中に、私たちがイエスを知り受け入れるひとつのプロセスを見ることも出来ます。ザアカイは、まずイエスを何とか見ようとし(求道)、イエスの声を聞き(御言葉を開く)、イエスの申し出に応じて(御言葉に従う)、木の上(自分の立場や地位、価値観)から降りて来て、イエスを自分の家の中に迎えいれ(心の中に迎え入れ信じ)ます。イエスが泊まられたということは、イエスと共に食事をすること(親しい交わりの関係)、主イエスに給仕する(仕える)ことも含まれていたでしょう。イエスの出会いから、受け入れを経験し、悔い改め、心が変えられ、愛と犠牲を持って行動しました。
◎ Home Group Questions 1. 人は外見でその人を決めがちです。人々のザアカイについてのイメージはどのようなものだったでしょうか。
2. ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。
3. イエスに名前を呼ばれたザアカイは「喜んでイエスを迎えました」。イエスの言葉がザアカイにどのような影響を与えたでしょうか。
4. ザアカイが主の救いを体験するプロセスの中で、あなたは今どのあたりにいるでしょうか。
5. マイク牧師がゴルフクラブで知り合った人々が教会に来るようになりました。あるクリスチャンにとって、教会外の人々と出会うことが少なくなると言う危険性があります。あなたが出会う人々を教会に誘ったり、福音や救いの証しを話す機会はあるでしょうか。
<The Inheritance of the Saints:エペソ1:11-23> 「私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
あなたは今どれだけの財産を持っていますか。そしてどれだけを家族から相続するでしょうか。私たちはこの世を去る時、何も地上のものを持っていくことはできません。家もお金も名誉も幸せも、この世においていくことになります。その時には、それらはやがて自分の家族や親族が使うことになるかも知れませんが、私たち自身の所有権を主張することは出来ません。そのことを理解する時、所有に対する意識はどのように変わるでしょうか。
阪神淡路大震災で被災した人は、当時すべての所有物を失った経験があるかもしれません。ある方は、「あの時全部失ったのに、今また物が増えて来ている。あの頃はなくてもなんとかなることを学んだのに」と語られました。私たちの所有する意識は、それをいつも手放さない限り、いつも私たちの中にあることを発見します。そして、この世のものを手放せば手放すほどシンプルライフになり、生活と時間に幾分かのゆとりを見出すことが出来ます。また、この世のものはいつか置いて行くことになる現実を理解すると共に、次の世界での生活の準備を始めることが出来ます。聖書は、私たちが主イエスの故に天の御国を継ぐものと記しています。パウロは、ピリピ3:20で「私たちの国籍は天にあります。」と獄中から書きました。天で受け継ぐものがあることに目を向けましょう。
マイク牧師は、「あなたは赦された罪びとです。イエス・キリストの偉大な遺産を受け継ぐ者です。あなたを救われたお方自身の似姿に造られた聖徒です。罪びとしては、過去の罪のわなに捕らわれ続けるべきではなく、聖徒としては、神様がご計画されている将来にまだ到着していません。」と説明されました。「罪びと」として生きてきた者が「聖徒」と呼ばれていることは、キリストにあって全く新しいアイデンティを持って歩むことに召されていることを意味します。あなたの新しい名は「聖徒(特別に選び分かたれた者)」です。
◎ Home Group Questions 1.「受け継ぐ」(inheritance)という言葉は何回出てきますか。「彼にあって」(11節)「キリストにあって」(13節)、私たちはどのような存在だと語られていますか。 2.「聖徒」(saints)という言葉は、何回出てきますか。聖徒とは、誰を指しているのでしょうか。あなたはどうでしょう。あなたは「罪びとである」と「聖徒である」とでは、どちらのタイトルに馴染みがありますか。「罪びと」であること以上に「聖徒」というタイトルに親しむ為には、どうすればよいでしょうか。
<日本宗教について> 日曜日のJコミュニティーは日本宗教の学びをしました。知っているようで知らないのが、自分のこと、日本のこと、日本人自身のことだと思います。大学で比較宗教の授業を取ったりする機会がない限りは、それぞれの宗教について考えたり考察することは少ないですが、日本で生きるクリスチャンにとって、欠かせない分野かもしれません。
1990年代の日本の世論調査になりますが、「熱心に宗教を信仰している」のは9%、「信仰したことはない」が54%、20代では80%が「信仰と無縁」と答えています。しかし、神仏の存在については、59%が「信じる、ある程度信じる」と答えています。また、科学では説明できない不思議な力や霊的なものについても、49%が「信じる」、20代では62%が「信じる」と答えています。その日本人が毎週教会に行くキリスト教国アメリカ、断食や聖戦を行なう命がけのイスラム教、嘆きの壁で祈るユダヤ教徒をイメージする時、日本人は宗教的ではないという感覚になります。しかし現実は、初詣にお盆、除夜の鐘、先祖崇拝、仏壇、神棚、チャペルウエディングがごっちゃまぜで、宗教信仰者数は人口の168%という不可思議な数値が浮かび上がります。いろいろ手を付けて習慣行事として関るものの、本心からの特定信仰を持たない多宗教混同国民とでも言えるでしょうか。その「信仰のあいまいさ」と「宗教の使い分け」が日本人の特徴かもしれません。ここでは、神道と仏教について簡単にまとめたいと思います。
1.神道について 「古事記」や「日本書紀」には、神道の始まりとなる日本神話が記されています。水滴から日本の8つの島を作り、イザナキとイザナミが日本に下りてきて、他の神々を産んでいきます。土、海、風、木、山、野の神を次々に産んだイザナミは、火の神を産む時にやけどをして死にます。イザナキは、地底の黄泉国にイザナミを尋ねに行くが、イザナミの体にうじがわき、8人の雷神を生まれているのを見て恐ろしくなって逃げ出します。鬼女や雷神や軍隊に後を追わせるが、地上に出たイザナキは黄泉国とこの世を結ぶ穴を大岩で塞ぎます。その後、イザナギの杖や服から神々が生まれ、左目を洗うと天照大神、鼻を洗うとスサノオノミコトが生まれたのでした。天照大神が天井の岩窟に閉じこもると、天上も下界も真っ暗になり、悪神が横行し、災いが生じ始めました。八百万の神々は相談して、天の岩屋戸の前でお祭りを始め、おびき出して天地に再び光明が訪れるようになったという話は有名です。ウガヤフキアズノミコトとタマヨリブメは結婚しワカミケヌノミコトが生まれ、後の神武天皇になったとしています。神道は、「八百万の神」と言われるように多神教宗教とされていますがが、祭神名が変わったり仏教などの外来宗教の神格とも容易に習合されています。天地の神々への信仰、自然崇拝、アニミズムから発達し、稲作農耕の中で形成された宗教です。
2.仏教 紀元前五世紀、インドのシャカ族出身のゴータマ=シッタルタが悟りをひらき教えを説いたことに始まります。人生は苦であると悟り、その原因、解脱の方法、解脱した涅槃(ねはん)の世界を見きわめることを説きます。仏陀を中心にした当初、男僧(比丘=びく)・尼僧(比丘尼)が教団を構成しましたが、仏陀の亡きあと分裂。当時インドの宗教ヒンズー教の影響を受け、仏教とヒンズー教の混合宗教へと発展していく中、紀元前三世紀、アショカ王によりインド各地のみならず東アジアに伝播され、紀元前後に大乗仏教が発生しました。それまでの伝統仏教は小乗仏教とよばれ、スリランカ、ミャンマー、タイなど南アジアを中心に広まり、大乗仏教は中央アジア、中国、チベット、朝鮮、日本へと伝わり各地の土俗信仰を取り入れました。日本には六世紀半ばに伝わり、奈良時代までは学派仏教の性格が強く、平安初期に成立した天台・真言両派に至り宗派的性格を生じ、鎌倉時代の諸宗派の成立に至って大衆の宗教へと発展していきました。
JKUC2004⑪ⅱ
目次 <A New Heaven and New Earth:イザヤ65:17-25>(2004年11月18日 第164号) <釈迦とキリスト>(同上) <Stewardship:Jim Bechtoldさんの証し>(2004年11月26日 第165号) <Who is Your Leader?:コロサイ1:11-20>
<A New Heaven and New Earth:イザヤ65:17-25> 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。23 彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。25 狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。」
17節を見ると、「先のことは思い出さず、心に上がることもない」と出てきますが、私たちはよく過去のことを思い出し、そのことで腹を立てたりイライラしたりします。楽しかった思い出や良かったことを思い出せるなら幸せかもしれませんが、「心に上がってくること」は、自分が傷つけられたことや失敗をして自分や人、会社や団体を責め怒る思い、劣等感や不平不満であることが何と多いでしょう。マイク牧師は「Change(変化すること) 」を語られました。神様は変わることがないお方ですが、私たちクリスチャンは変わっていくことに召されていると言えます。罪ある状態から、救いを受け、義と認められ、キリストと歩む新しい人生へと召されています。信仰を持ち洗礼を受けたからといって、それで完璧なキリスト者となるわけではありません。古い習慣を捨て、古い自我を捨て、キリストの似姿に変えられていく聖化のプロセスに入ります。悔い改めと赦し、いやしと解放、祈りと御言葉、教会の交わりと奉仕、礼拝と弟子訓練、聖霊との親しい交わりが必要です。
神様が新しく創造されるという「新しい天、新しい地」は夢やおとぎの国かのようで、現実として想像することが難しいかもしれません。しかし、この「新しい天、新しい地」の預言は聖書の他の書にも登場し、まだ私たちが目にしていませんが、やがて成就する創造の業です。新約聖書の2ペテロやヨハネの黙示録を読むと、キリストの再臨と終末に続く「新しい天と新しい地」のことが書かれています。今の世界、天も地も過ぎ去り、神の完全な支配の中にある「新しい天、新しい地」が到来するとあります。
イザヤ66:22「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」 2ペテロ3:13「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」 黙示録21:1「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
先日、「黄泉かえり」という映画(ビデオ)を見ました。大分県で突然死んだ人が甦り、死に別れた母や妻、兄弟の前に現れ、感動の再会をするが、ある日の夕刻、一斉に消えてしまうお話です。その間、この不思議を解明しようとする人々、また死んだ人が甦ることによって起こる様々な人間模様が描かれています。
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(黙示録20:4-6)
ここで、第一の復活にあずかった聖徒は、甦った後、キリスト共に千年間、祭司となり、王となるとされています。甦りの聖徒は、映画のように消えてしまわないで、人間の寿命をはるかに超えて生きるのです。そして、千年の後、サタンの完全な敗北、最後の裁き、新しい天と新しい地の到来とヨハネの黙示録20章で展開されています。
「キリストの再臨」を待ち望む時、私たちは自らの信仰を顧み、悔い改め、キリストの関係を新たにし、再臨のキリストを迎える心の準備が必要であることに気付きます。天と地が完全に新にされる前に、今日この日に、私たち自身の習慣や内面、信仰や愛において、新たにされましょう。
◎ Home Group Questions 1. 人生で今慣れ親しんでしまっていることは何でしょうか。神様はどのような変化を望まれていますか。 2. この世で不条理に思えること、不公平に思えることは、ありますか。私たちは神様の視点からどのように見ることが出来るでしょうか。 3. キリストの再臨を待ち望む時、私たちの生活や信仰はどのように変わりますか。
<釈迦とキリスト> 以前のライブラリー紹介で取り上げました「イエスに出会った僧侶」から、釈迦とキリストの言葉をいくつか比較して考察したいと思います。
松岡牧師は、本来の仏教について、「簡単に言えば、物事の真相を見抜き、その真理に基づいて人生の苦しみからの解放を果たすと言うことです。つまり、存在するものはすべて移り変わるもので、いつまでも変わらずに存在するものはない。人間は、本来虚しく、必ず消えていき、変わっていく存在に対して執着や欲望を起こす。また、失われるのではないかという恐れ自体も苦しみとなる。従って、人生の苦しみから解放される道は、物事は虚しいと言う真相を良くわきまえ、執着や欲望を絶つことである」(p83-84)と説明しています。釈迦は、これが悟りであり人生の答えだとたどり着いたのです。確かにすべてに「自分のもの」という意識が働く時に、イライラや人生の苦しみが起こります。自分の生活、お金、衣食住、学歴、尊敬が気になったり、人のことでも「こうすべきだ」「私ならこうする」と自分のものとして取り込んでしまうと、イライラが始まります。その意識を手放せば、とても楽になります。
アメリカでカウンセリングを学んでいる時、「Letting go(こだわっていることを手放すこと)」という言葉をよく使いました。手放したらもっと楽なのに、どうしても手放せない為に、うつ病になる人が多いと言われます。「彼女に振られた」「夫が浮気をして家出した」「親が病気で死んでしまった」「新車が傷つけられた」「会社が倒産した」「解雇された」。受け入れられない現実を思考の中で握り締め、手放すことが出来ず、いつもそのことで怒り悲しみ自分と人を責め、過去の一点からから離れられないことが長期に起こると、人はうつ病になります。しかし、手放すことを学び始めると回復に向かい、新しい人生への歩みを始めることが可能になります。釈迦のように「すべては変わってしまう。執着を捨てよう」と心を柔らかにすると、きっと良くなっていくと思います。キリスト教カウンセリングでは、「自分で握り締めないで、主に委ねる」と言います。どのような状況においても、神様は私たちの最善を成して下さるお方で、すべての試練も困難もそれを耐えることの出来る力を与え守り、さらに大いなるご計画に導いて下さることを信じます。自分で自分の人生をコントロールすることを明け渡し、代わりに全能なる愛で満ちた父なる神様に、私たちの人生のリーダーとなって頂くわけです。自分で車を運転して、人生の迷路に迷い込み、どうしたらいいか分からない時、自分の車のドライバーは自分であるという固定観念から解放され、神様への信頼をもってドライバー席を明け渡すなら、神様は正しい道へと導いてくださいます。これがキリストへの信仰です。
聖書を開けば、主イエスは「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:31)と語っています。心配しないこと、所有へ意識を捨てることは、幸せな人生の鍵でしょう。釈迦の悟りには、神様や霊的超越的な存在は一切登場しません。あくまでひとりの人間が心の葛藤から如何に離れ生きていくかを発見した(悟った)と言えます。一方聖書は、主イエス、もしくは父なる神様との関係の中でメッセージが語られています。
「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6:32) 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28) 「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24-25)
私たちの平安は、自分の欲求から解放された自分を保つことから来るのではなく、何も心配しなくても私たちを愛し面倒を見てくださる愛の神様がいるところから来ます。「愛の神様がいる」という概念に留まることから来る平安ではなく、実際に今も生きて働かれる神様が私たちの毎日の生活に関わってくださっているという現実から体験的平安と言えるでしょう。「教会に行っている、クリスチャンです」と言っても観念だけでしか神様を知らない場合は、「西洋の宗教を信じている日本人」という枠組みにある宗教信仰者のひとりになってしまいます。クリスチャンの醍醐味は、「~しなければならない」という律法ではなく、見えないけれども誰でも個人的に体験できる神様との関係と言うことが出来ます。
<Stewardship:Jim Bechtoldさんの証し> 日曜日にはマイク牧師のメッセージの後、Jim Bechtoldさんからチャレンジに満ちた証しの時間がありました。今まで献金を捧げた経験があっても、献金皿が回されて、そこからお金を取ることはほとんどの人が経験がないと思います。用意された総額がいくらになるかは知りませんが、1千円―1万円が入った封筒が200枚以上用意され、すべての礼拝出席者はお金の入った封筒を受け取りました(そのお金は教会会計からではなく、Jimさんご自身が準備されました)。「現金を貰える教会?」 実際に現金を手にして不思議な気分になった人もいると思いますが、私たちは「与えられていること」と「与えること」両方を学ばなければならないのだと思います。その証しの中で「私たちが受けているすべてのお金、財産、祝福は、すべて神様のもので、私たちはそれを用いるように委ねられている」とチャレンジされました。私たちは、与えられた封筒のお金を、私たちの周りで必要としている人に与えるというミッションを得ました。自分の必要を満たすのでも、教会に返すのでもありません。他の誰の必要を満たす使命を得ました。
<Who is Your Leader?:コロサイ1:11-20> 「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」
書店に行けばリーダーシップに関する本が所狭しと並んでいます。様々な業界の起業家や社長が経営戦略について書いたビジネス書も多く見られます。成功している社長やリーダーは、勇敢で忍耐強く、創造的で情熱があり、恐れることなく、揺るがされることがないイメージがあります。そのような能力や才能、力は自分にないと思うかもしれません。今日、私たちは自分の中に何かを見つけ出そうとする代わりに、私たちが従うべきお方、私たちのリーダー、王であるキリストに心の目を向けたいと思います。
私たちは「愛する御子の支配」(13)の中にいます。御子はすべてを創造し(17)、教会(私たち)のかしら、リーダーであるお方です。このお方は、リーダーという高い所に座して命令を下すお方ではなく、人間の体をとって、この地上に来て下さり、この世のすべての苦しみを知ってくださり、そればかりではなく、私たちすべての罪を自らの身に背負って下さったお方です。王なるお方でも、仕えられるより仕えることを選ばれたお方です。自らを贖いの小羊として捧げ、罪の赦しを完成し、父なる神と私たち人間の間にあった罪の隔てを取り除き、和解をもたらさせて下さったお方です。私たちが仕えている王は、仕えることを自ら示された王です。
私たちの心は、この王なる主イエスに向けられているでしょうか。主イエスの言葉を王の言葉として聞き、それに従い、生活しているでしょうか。ある人は、「主イエスに従う」という言葉を聞く時に、「神の律法を守ること」「十戒を破らないこと」等を反射的に思い浮かべます。もし主イエスとの関係が、律法や十戒を守ることとすりかわっているなら、要注意です。確かに神様はイスラエルとの関係の中で律法を与えられましたが、私たちにはさらに優れた主イエスとの関係が与えられています。私たちが主イエスに従うのは、神の御子であるという本質の故だけではなく、その贖いの業の故に、愛の応答と感謝を持って従うことが出来ます。そして、ご自身が何よりもその模範を人生を通して見せて下さいました。
私たちの心は、この王なるイエスに向けられているでしょうか。私たちの周りには問題があります。受け入れがたいこと、信じられないこと、思いがけに事故や不幸に見舞われることがあります。職場や学校でのプレッシャーや責任、家族・親族関係、友人関係のもつれ、争い、怒り、憎しみに巻き込まれることがあるかもしれません。自分自身に失望して、深い劣等感を持ち、存在意義がないことに途方に暮れることがあるかもしれません。ある人の言葉がナイフのように心に刺さって、心に痛みと苦しみを覚え続けたことはないでしょうか。心傷つけられた経験から、今度は相手を憎んだり恨んだり無視したりした経験はないでしょうか。私たちが私たちの生活の中に、私たちの人間関係に、また私たちの心の中に問題を見つける時、私たちはそれを見つめ、思考を凝らし、触り続け、私たちの目はいつもそこに注がれ続けています。目を逸らしたい出来事でも忘れたい事柄でも、なぜか心の中に、怒りや悲しみ、復讐心や失望感となって、残っていることを発見します。決してその問題から目を離すことが出来ない自分がそこにいます。私たちが問題を見つめている限り、私たちの目は決して主イエスを見上げることは出来ません。
私たちの心は、この王なるイエスに向けられているでしょうか。主イエスが与える戒めは、愛の戒めです。人々を愛することです。自分と異なっている人を受け入れることです。害を及ぼした人を赦すことです。与えることです。祝福することです。励まし手、慰め手となることです。主イエスの愛の御業を人々に分かち合うことです。神に栄光を帰すことです。この王の愛の戒めに喜んで従いたいと思うでしょうか。
私たちは御言葉と祈りと賛美を持って、私たちの心を主に向けます。御言葉は私たちの光となり、祈りは神様への告白となり、賛美は神の臨在を招きます。今日祈りをもって、私たちの目を王なるイエスに向けましょう。
「主イエス様、あなたは私の王です、主です。私は私が抱えている問題ではなく、あなたに目を向けます。私の幸せや関心事ではなく、あなたに目を向けます。従って行きたいです。自分自身のことや周りに目が行くことから守ってください。あなたの国民とされたことを感謝します。アーメン」
◎ Home Group Questions 4. あなたにとって最も大切なものがあなたの人生の中心であり、人生を導いているものです。あなたの人生を導いているものは何でしょう。 5. 私たちの人生に問題が起こる時、私たちはその問題を見つけ過ぎて主を見上げなくなる罠にはまってしまいます。そのような状況に陥っていませんか。捕らわれているものはありませんか。 6. キリストはあなたの王でしょうか。
2004/12/21 JKUC2004①
<目次> <What Child is This?:マタイ2:1-12>(2004年1月10日 第123号) <新年メッセージ2004>(同上) <Called and Beloved:ルカ3:15-17、21-22>(2004年1月17日 第124号) <Japanese Ministry Vision 2004>(同上) <Come to the Party:ヨハネ2:1-11>(2004年1月22日 第125号) <The gifted team:1コリント12:12-31>(2004年1月31日 第126号)
<What Child is This?:マタイ2:1-12> 教会では新年の第1日曜日を、顕現日(Epiphany)としてお祝いします。顕現(Epiphania)とは、もともと人の目には見えない神の本質が、目に見えるものとなって現れる事をいいます。主の降誕と復活の谷間にあって、イエス・キリストの栄光の顕現を、祈りをもって偲ぶ時であります。顕現日は、星をしるべに東方の博士たちが、生まれたばかりのイエスに礼拝したことの記念日です。
7日(水)に妹が出産しました。両親は初孫に大喜びです。この世に生を受け、産声を上げて誕生した赤ちゃんは、小さく、無防備で、親の世話なしには生きていけないような存在です。生まれたばかりの赤ちゃんが、はいはいをし、言葉をしゃべり、歩き出し、成長して学校に行くようになり、やがて成人していくことを思い描くのはとても困難です。しかし、そこにはかけがえのない生命が、誰とも同じではない人生が存在していることを覚えます。イエス様の誕生も同じようだったのではないでしょうか。言葉もしゃべらない生まれたての赤ちゃんが、神様から約束された救い主となることをどうして思い描くことが出来るでしょう。ただそれは、信仰によってのみ可能なのです。
では、私たち自身はどうでしょう。クリスチャンとして生まれたばかりの赤ちゃんでしょうか。完全に成長したキリスト者でしょうか。私たちは神様の御心の人生を歩いているでしょうか。もし神様が偉大な計画を私たちに与えられているとしたら、どうしてそれが分からないのでしょう。体験できないのでしょうか。私たちが人生を見るにつけても、信仰が必要になってきます。神様の目が必要になってきます。
神様はひとりひとり特別な存在として創造されました。神様ご自身が私たちひとりひとりを形作り、母の胎に宿らせました。神様のご計画は私たちが誕生する以前からあったのです。 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ1:5) 「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139:13-16)
私たちの多くは神様が与えて下さっているご計画も愛も祝福も知らずに、自分なりに自分の行きたい方向に人生を築いています。神様の用意して下さっている素晴らしい方向に生きずに、全く違った方向に生きることは、欲求不満とストレス、努力してもなぜか幸せになれない袋小路に入ったようなものです。これを「的外れの人生」と呼びます。聖書に出てくる罪とは、ギリシャ語では本来「的外れ」という意味を含んでいます。神様を(神様が用意してくださっている祝福をも)無視して生きる生き方(自己が中心となる生き方)は、的外れです。
クリスチャンはもう一度、神様の目で人生を見つめる必要があります。それは、「神様はわたしにどんなご計画をもたられているのか」「神様はどのように私を祝福し、わたしを通して人々を祝福しようとされているのか」「神様の御心を知り、御心に生きるにはどうすればいいのか」と祈りのうちに神様に聞くことが必要です。神様は今も生きて私たちを導いてくださるお方ゆえに、私たちは実際に神様の声や神様の導きを聞き、神様が私を愛の内に導いて下さっている事を体験できるのです。主はあなたの中にある人生のダイヤモンドを輝かせないと願っています。自分の鉄の工具で磨き続けますか、それとも神様の御手で磨いて頂きますか。
<新年メッセージ2004> 私たちは新年を迎える時に、とても新しい気持ちになります。何か新鮮な思いでこの日を迎えます。元旦だけ1日26時間になる訳でも、貯金が2倍に増える訳でもありません。しかし、その一日は1年の象徴的な1日と感じます。去年ではない新しい今年に期待を寄せます。新しいスタートを切れる時だからです。去年までの古い習慣を捨て、新しい習慣に生きたいと願います。新しいことを始める区切りの時だからです。
あなたにとって、2003年はどのような1年でしたでしょうか。合格や成功を収めた年でしたか。困難や辛さを味わう年でしたか。記念となる節目の時したか。愛する人々と別れなければならない寂しい時でしたか。
「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:18-19)
2003年が栄光に満ちた年であれ、悲しみの年であれ、私たちの主の宣言は、「わたしは新しい事をする」です。あなたの人生の中で新しい事をなされます。あなたは仕事の転換期になるでしょうか。将来のパートナーを求めているでしょうか。留学を考えていますか。進路が問題ですか。生活費のことですか。老後の気になりますか。人生に変化を求めているでしょうか。すべての思い煩いや心配事、問題や習慣を主に委ねて、主にお任せする決心を告白された人々は決して見放されることはありません。そして、主はあなたの人生で新しい事を始められる為に、まずあなたの内で新しい事を始められます。
心に手を当てて体温を感じて見て下さい。あなたの主への愛の温度はどれくらいでしょうか。胸が裂けんばかりの深い愛を手のひらに感じるでしょうか。神様の思いは、あなたを神様の愛でいっぱいにすることです。そして、その愛が溢れんばかりに流れ出し、周りにいる人々すべてを祝福することです。その真理の奥義は、キリストご自身を私たちの心の内にお招きしているかどうかです。
イライラする時、怒りっぽくなる時、不機嫌な感情に支配される代わりに、十字架上の主イエスに目を注ぎ、聖霊様を不安定な心にお迎えしているでしょうか。主はあなたの人生で新しい事をなすために、あなたの心のうちで新しい事を始めてくださるお方です。主ご自身が自分の心の平安となって下さることを願いますか。
あなたの兄弟関係、あなたの親子関係、あなたの夫婦関係、あなたの家族関係の中に新しい事をなされます。愛すべき関係に憎しみがあるでしょうか。労わり合う関係に無関心と冷たさがあるでしょうか。受け入れあう関係に支配と強制力があるでしょうか。自分ではどうすることも出来ないような関係においても、主は新しい事をなされる力を持っておられます。主が全知全能であるということは、人間関係のもつれを超自然的に解きほぐすことも、決して赦すことが出来ないほどの深い憎しみや傷をいやす事が出来るお方であるということです。
主の命令は、関係についてです。「神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」も、両親を敬うことも夫婦が愛し合うことも関係です。「殺すな」「盗むな」「姦淫するな」「偽証するな」「むさぼるな」も関係の破壊を防ぐ戒めです。主は愛すべき関係を愛で満たしていることを願われています。それゆえに、あなたが最も近い家族との関係は、主が最も目を注がれている関係です。親子関係でしょうか。夫婦関係でしょうか。兄弟関係でしょうか。私たちは最も身近な所にこそ、主の助けと奇跡を必要としています。
主はあなたの健康においても新しい事をなされます。病を引きずっているでしょうか。持病をお持ちでしょうか。治療を受けても改善されないことに不安をお持ちでしょうか。不眠症と精神的な不安定さの中で耐えているところでしょうか。主は今までお医者さんも聞いた事のない奇跡的いやしも可能なお方です。なぜなら、「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26)からです。
主は教会の中で新しい事をなされます。祈りのムーブメントでしょうか。ホームグループによるケアでしょうか。留学生への伝道でしょうか。アルファコースでしょうか。心や体の病のいやし、赦しと解放のミニストリーでしょうか。カウンセリングコースでしょうか。高齢者会でしょうか。プログラムや行事以上に、クリスチャン同士の愛の関係が増すことでしょうか。信徒リーダーや信徒牧師が生まれてくることでしょうか。牧師の成長でしょうか。牧師を愛し執り成す人々の働きでしょうか。
主が用いられるのは、クリスチャンひとりひとりです。キリストの愛に生きる人間関係と教会形成があるところに、人々は集まりたいと願います。牧師だけがすべて行なわなければならない教会には、絶えず「疲れた」「無理をしない」「無関心」という空気がよどんでいます。一方、人々が吸いたい空気は、「心いっぱいに主を礼拝する」「相手の立場に立って思いやる」「喜んで犠牲を払う」所に存在します。主は新しく私たちの只中に教会を(建物ではなくキリストにある人々の関係を)、建て上げて下さると信じています。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)
聖書は私たちの人生も生き方もすべてが、キリストによって新しくすると約束しています。今年、主が私たちすべてのために新しい事をなして下さることを期待できます。あなたは、「新しきことをされる主」を信じますか。
<Called and Beloved:ルカ3:15-17、21-22> 洗礼(バプテスマ)の意味について学びます。洗礼はクリスチャンミニストリーの第一歩になります。まだ洗礼を受けていない人にとっては、今その重要さを気付いていないかもしれません。しかし、私たちは洗礼によって、ミニストリーに召されていることになります。KUCでは、基本的に浸礼(水に体ごと浸かる洗礼)を行なっていますが、幼児や病床にある人には滴礼(頭に少量の水を注ぐ洗礼)も行なっています。浸礼によって、洗礼を受ける時に、象徴的に体験できる真理があります。それは、第一に水にすべて浸かる事による葬り、「死」を意味します。私たちは信仰告白によってキリストを心に迎え入れました。そして、自分中心の人生を止めて、キリスト中心の人生に入ります。人生の中心が「自分」から「キリスト」に変えられるのです。すなわち、ここで自分中心の人生を放棄すること、すなわち、自己に死ぬことが必要になります。洗礼式で水に体全体が漬かってしまう時、象徴的に「私の人生は葬られた、自分を中心に、自分の幸せのためだけの人生はここに死んだ、キリストが十字架で死んでくださったのと同じ様に私も死んだ」ということを意味します。第二に、浸礼において水に浸かった体は、もう一度起こされます。それは、キリストと共なる復活を意味します。自己に死ぬだが洗礼ではなく、キリストの復活の命に与ることが大切です。それは、「自分」には死んだが、キリストの新しい命が与えられ、新しい命に生かされ、新しい命に育まれることを意味します。
2000年前に主イエスもヨルダン川で洗礼を受けられました。その時、洗礼を授けたヨハネは、 「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(ルカ3:16) と語っています。確かに、主イエスが昇天されて後、主は弟子たちに約束通りに聖霊と火を注がれ、浸され、満たされたのでした。そこにはいろいろな国々の人が集い祈っていました。すると、突然聞いたことのない言語で人々が賛美するので驚いたのでした。 「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:2-2:4) 福音はユダヤ人だけではなく、他のすべての民族のものとなりました。それ故に、KUCにおいてもアメリカ人、日本人、中国人、フィリピン人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、インドネシア人等いろいろな国から人々が礼拝を捧げる為に教会に集うのです。そして、洗礼はこのグローバルな神の家族の関係に私たちを招くのです。
私たち神の民のミニストリーは、祈りの生活です。人生の決断の一つ一つ、毎日の歩みの一歩一歩において、主に導きを求めて生きていく生活です。洗礼を一過性の宗教行事とするか、洗礼を出発点に神様とコネクションをもって、その関係の中で毎日を生きていくかは、大きな違いがあります。見せ掛けだけのクリスチャンと神様と交わりを持って毎日生きているクリスチャンとは、明確な違いが出てきます。ある人は、神様との交わりにはよそ行きの姿で失礼のないように接しようと努力します。しかし、毎日を神様と共に始め、共に過ごしているクリスチャンは、神様を心から信頼し、何でも話せる良き父親のように感じます。それほどの親密感が生まれてきます。それは、祈りの生活を通して関係が結ばれているからです。
主が洗礼を受けた時、神様からの声がありました。 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:22) 父親がわが子に語る愛の言葉です。私たちも主イエスキリストを信じる信仰によって、「神の子」とされました。そして、私たちにも「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と愛のメッセージを語って下さいます。私たちは神様の子供です。私たちは愛されています。神様のスマイルが私たちに注がれています。私たちが「自分は本当に愛されている」ということを心の奥底から体験しているなら、人々の声や批判は気にならなくなります。人の幸せや成功をうらやましく思いません。それらが入ってくる余地がないほど、心が愛に満たされるからです。人の言葉や評価に左右されないほどの主の愛が心にあるからです。
私たちは主の御声を聞くことが出来ます。洗礼を受けるあなたへの主の御声は、愛のメッセージ「わが子よ、わたしはあなたを愛している」です。神様はあなたが御言葉によって養われ、祈りによって関係が強められ、神様がすでに与えられている宝をもって神様を礼拝し人々に仕える神の子供としての人生を与えられています。自分の思い通りに生きる生き方から、神の子供としてキリストを中心に愛に生きる生き方に変えられているのです。今日、神様の声を聞いて下さい。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
<Japanese Ministry Vision 2004> 1.ケア・ミニスター 教会でよく聞く「ミニストリー」(ministry)と言う言葉と牧師や聖職者を指していう時の「ミニスター」(minister)は同じ語源の言葉で、「仕える」「仕える者」を意味します。一般に教会でミニストリーという言葉は、「働き」とか「わざ」という意味で、ジャパニーズミニストリーは、日本人による働きかけ、もしくは日本人への伝道、訓練、奉仕という意味です。しかし、その「働き」は一般に使われる仕事や労働、労務などの行動だけに焦点が当てられた言葉ではなく、教会内では「人々に仕え、神に栄光を帰する働きやわざ」と言えます。たとえば、ワーシップミニストリーは、教会の礼拝や賛美、クワイヤー、バンド、ドラマ、アッシャー等、教会の礼拝に関するすべての事柄を通して、教会や人々に仕え、整え、神に栄光を帰する働きということが言えます。プレイヤーミニストリーは、祈りを通して、人々を励まし支え、牧師の霊性を守り、教会を建て上げる奉仕であり、それを通して神に栄光を帰する働きやわざです。伝道と弟子訓練ミニストリーは、人々への伝道と弟子訓練によって聖徒を整える奉仕の働き、そして人々がキリストにあって成長することによって栄光を主にお返しする働きです。ユースミニストリーは、中高生に対して聖書を教え人格を建て挙げ主に導く奉仕であり、価値観の乱れるティーンの時代にキリスト中心の人生の土台を形成することにより、導かれた青少年の将来が主の栄光となる働きです。
主の働きをするのは、牧師や伝道師だけの仕事ではありません。主はすべてのクリスチャンをその宣教と主の愛の働きへと召されています。神様の愛の戒めは、これです。 「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29-31) 「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34) これは私たちすべてへの召しです。それは、神様を愛し人々を愛することです。今年特に理解を深めたいことは、教会のお互いがお互いのことを大切にし、愛し、心配し、親切にし合うことです。牧師が信徒へのケアを牧会ケアと呼びますが、これだけでは教会は本当の教会ではありません。教会員がお互いをケアし合う、相互牧会ケアが必要です。
聖書に「互いに」という言葉を探してみたことはありますか。特にパウロ書簡にたくさん出ぼてきます。それは、教会において主ある互いにある関係が大切であり、相互牧会ケアを意味しているからです。 ローマ12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」 ローマ15:14 「また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」 ガラテヤ6:2 「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」 エペソ4:32 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 エペソ5:21 「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」 コロサイ3:13 「互いに忍び合い、…、互いに赦し合いなさい。」 1テサロニケ4:18 「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」 1テサロニケ5:11 「ですから、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」 1ペテロ1:22 「互いに心から熱く愛し合いなさい。」
私たちはこれらの御言葉を実践することにより、教会を建て上げていきます。お互いの関係に愛を実践する時、私たちは主の相互牧会者であり、お互いを大切にして仕え合う奉仕者、「ケア・ミニスター」と呼ぶことが出来ます。教会の中で、家庭の中で、職場で、学校で主の御言葉を実践する愛の奉仕者「ケア・ミニスター」が、起こされることを祈ります。たとえ人目につかなくても知られなくても、神様はその働きをしっかりとご存知ですから。
<Come to the Party:ヨハネ2:1-11> イエス様が初めてなされた奇跡は、ガリラヤにあるカナという町で行なわれていた結婚式の裏方で行なわれました。その結婚式には、イエス様の母も弟子たちも招かれていました。結婚のパーティーもたけなわの時に、婚礼ではかかせないぶどう酒がそこを尽きてしまいました。そこで、イエス様は水をぶどう酒に変えるという奇跡を行なわれた。
1. 祝福と喜びになる 主は私たちの人生が喜びと祝福に満ちたものとなるように奇跡を行なわれます。私たちが神様の奇跡を考える時は、「目が見えるようになった」「足が歩けるようになった」「癌がいやされた」「虫歯が治って金歯が生えた」というすごい癒しの話を思い浮かべるかもしれません。もしくは、麻薬中毒や借金地獄に喘いでいた者が奇跡的に解放され、神の勝利を体験したというものを考えるかもしれません。もしくは、人に取り付いていた悪霊が出て行くことを奇跡として見るでしょう。モーセに導かれたイスラエルの民は、紅海が別れてその海底を乾いた状態で歩くということも経験しました。イエス様のメッセージに耳を傾けていた5000人の人々が養われたことや死人を甦らせたことも福音書に記されています。ところが、この水をぶどう酒に変える奇跡は状況が少し違います。確かにぶどう酒がないことで、そこに緊急性と必要が生じていましたが、生死関わるような状況ではありませんでした。ここでは、婚礼に携わる人々、イエスの母、世話役の人、列席者、そして新郎新婦を豊かに祝福する結果となりました。神様は私たちが苦しみ、困難を体験し、死に直面している時にだけ登場して、人々を助けるお方ではありません。結婚式というお祝いの場においても、緊急の必要を満たし、その集いを豊かに祝してくださるのです。それは、私たちが病床に伏すときや死を直面した時だけ主を求めるのではなく、どのような時にも私たちの実際的現実的即時的必要をご存知であり、その所でも奇跡を起こして下さるお方です。今結婚生活に必要を覚えているでしょうか。結婚の準備に必要を覚えているでしょうか。将来の伴侶を与えて下さることに奇跡を求めているでしょうか。子供の健康や成長に神様の介入が必要でしょうか。老後の生活や家族のことで神様の奇跡を必要としているでしょうか。私たちが経験する生活すべてのうちにおいて、神さまは介入されることを望んでおられます。そして、私たちだけではなく、私たちと共にいる人々をも祝福し喜びで満たされることを望んでおられます。
2. 御声に従うこと イエス様の奇跡を見ることが出来た理由の一つは、母マリヤの言葉にあります。 「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2:5) マリヤの言葉に従って、イエスの言葉通りにしもべたちは動きました。語られた言葉通りに動くこと、イエスの言葉を実践することがなされました。私たちが奇跡を体験するには、「御声に聞き従う」という私たちの応答が含まれています。7節と8節にもイエスの御声とそれに従う僕の行動が記されています。 『イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。』 『イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。』 奇跡とは何もしないでも見ていると、ハット気がついた瞬間に起こる超自然現象ではありません。御言葉に従う従順さを通して奇跡の現実を見ることが出来ます。
3. 水の人生を最高の味わいをもつ人生に変えて下さる イエス様が自らぶどう酒に変えたことを知らない世話人は、花婿に言いました。 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2:10 )
主がただの水を良いぶどう酒に変えられたということは、同じことを私たちの人生においてもして下さることを意味しています。私たちの人生味気のないものでしょうか。何か足らないとおもっているでしょうか。喉は潤せても、心から喜ばせるものと言えない状態でしょうか。主に私たちの人生を委ねる時、水の人生はぶどう酒に変えられます。そこそこのぶどう酒やかろうじて味がするぶどう酒ではありません。良いぶどう酒、世話人がびっくりするほどの最高級のぶどう酒に変えて下さるのです。
私たちが自分の過去を見つめて。自分史を書き始めると何が見えてくるでしょうか。偉大な業績や成功、救済活動の功労賞やオリンピックの金メダルがあるでしょうか。まじめに生きてきたと思ったけど、たいしたことがない、こんなものかと思うでしょうか。人間の努力だけで成功と意義ある人生を送ることは大変難しいです。しかし、主の御手にある時、私たちの人生は完全に変えられ、それはどんなに貧しくても、最高級のぶどう酒のように変えられるのです。そして、その婚礼でそのぶどう酒を飲んだ人々は大いに楽しみ喜び、新郎新婦をいわったことでしょう。変えられた人生をもって、人々に喜びをもたらし祝福を与えることが出来るのです。水は『僕は今ぶどう酒になった!』と喜んで人々の口に入ることを拒むなら、それは役に立たない奇跡でしょう。しかし、主は、変えられた私たちを通して、他の人々にも神様の奇跡に招こうとされているのです。
4. 隠れた業 主が水をぶどう酒に変えられたことを、世話人もしもべも花婿も、その時すぐには知りませんでした。イエス様は、『今から水をぶどう酒に変える奇跡を行なうから、皆さんよく見て置いてください』とは宣言して軌跡を行なわれませんでした。奇跡が起こっても誰がしたか分からない様子でした。主の業は多くの場合、隠されています。それがすぐに神様が行なってくださったことだとは分からない場合が多いです。しかし、哀れみと恵みに満ちたもうお方は、いつも良き物を持って私たちを満たし潤し、良き働きかけをもって静かにご自身の栄光を現されます。主の謙遜と神様の働かれ方を垣間見ることが出来ます。誰も気付いていない、しかし、これは神様が導いて下さった、与えてくださった、備えて下さったということなど、心当たりはないでしょうか。仕事を与えてくださった、車のトラブルで困っている時に助け手が与えられた、お金が足りなくてどうしようもない時に不思議にやりくり出来た、この人と出会って人生が変わった、キリストに導かれた等、いろいろありませんか。もし何か気付くことがあるなら、神様に感謝し賛美の祈りを捧げましょう。
<The gifted team:1コリント12:12-31> 小学生の頃、地域のソフトボールチームに属していました。弱小のチームでした。他のチームには、体が大きくスポーツのできる子達が揃っているのに、どうひいき目に見ても、試合には勝てないようなメンバーでした。小学校6年生の時に、そのチームのキャプテンになりました。小さい頃から野球が好きで、それでいて負けることが嫌だったので、一生懸命練習をして、地区大会に臨みました。勝ちたいという気持ちや試合に臨む集中力が相手に勝っていたのかもしれません。予選を勝ち上がって、強敵を破って番狂わせをさせながら決勝戦まで勝ちあがりました。決勝では敗れましたが、チームが一つになって戦う中で生まれるダイナミクスや感動を覚えました。個人戦とは違う、チームで行なう試合の醍醐味があると思いました。
教会はチームです。チームとしてひとつとなって戦い、奉仕し、福音を伝え、愛の業を行い、神の御国を前進させます。牧師だけの個人戦ではありません。ミニストリーリーダーだけの活動ではありません。神の御国のためにひとつとなって戦っているひとつのチームなのです。
1.イエスによって一つのされた 「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(1コリント12:11-13)
私たちはキリストによって結び付けられ、ひとつとされています。そこには、アメリカ人と日本人、アフリカ人とヨーロッパ人という区別はありません。貧しい人と豊かな人の違いもありません。老若男女、老いも若いも、男性女性、すべて神によって一つとされています。神によって招かれ、イエスの十字架の血潮による赦しを受け、聖霊の満たしに与っているからです。そして、それは体にいろんな部分や器官が存在して、それぞれの大切な役割をもって、生命が維持され、人が人生を送っていることと類似しています。
2.大切なメンバーのひとりひとり 『確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(1コリント12:14-27)
私たちの霊的賜物は何でしょうか。KUCでは、80-100名が霊的賜物ワークショップに参加し、自分の賜物を発見しています。私たちはすべて、例外なく神様からの素晴らしい霊的な賜物を頂いています。私たちの多くは、そのわずかを現在認識していますが、霊的賜物ワークショップは、それらを知る助けとなります。『確かにこうしてワークショップを受けると、自分にはこんな賜物が与えられていたのか!』と驚かれる人が多いです。また、それ以外にもまだ原石のまま埋もれているものもあることでしょう。私たちの責任は、神様から委ねられている賜物を用いることです。それらによって、神に仕え教会に仕え、人々を祝福することです。
もし体の一部が「私のことを人は、耳というけれども、音を聞き取る器官だなんて信じられない。なんか聞こえるけどきっとこれは幻想だから、音は伝達しません」と主張し、そのほかの体の部分が自分に与えられている働きを拒否したらどうでしょう。心臓がその働きをやめて、「口になりたい」と言ったら、脳がその働きをやめて「足になります」と言ったらどうでしょう。死んでしまいます。そこには生命がありません。教会もメンバーが自分に与えられた賜物を認識しそれを用いることによって、成長していきます。そこには大小の違いはありません。ある人は、謙遜して「免許を持っているから、運転が好きだから」という理由で、シャトルバンのドライバーをされます。尊い奉仕です。ドライバーのおかげで、人々が教会に来、賛美と礼拝を捧げることが出来るのです。ベビーシッターの奉仕をして下さる方のゆえに、赤ちゃんを連れて教会に来て、しばらくの間主の前に静まり、御言葉を聞くことが出来ます。愛の内になされる奉仕には大小はありません。神様は私たちをご計画を持って創造され、理由をもって、私たちをこの時代、この国、この所、この家族、この関係の中に存在を許されています。そして、その存在を持って、神様に栄光を帰する事が出来る賜物も私たちに与えられています。私たちは、賜物を与えられたチームです。
1コリント12:31には「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と進めています。それは次の章、13章に書かれています。『愛』です。この日曜日は、1コリント13章から『愛』について学びます。
JKUC2004⑫ⅰJKUC2004 ⑫ⅰ
目次 <What Are You Getting Ready For?:イザヤ2:1-5>(2004年12月4日 第166号) <Prepare the Way:マタイ3:1-12>(2004年12月10日 第167号) <心いやされるための3つのステップ>(同上) <聖書のクリスマス預言>(2004年12月15日 第168号) <心いやされるための3つのステップ Ⅱ>(同上)
<What Are You Getting Ready For?:イザヤ2:1-5> 「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」
今年もあと1ヶ月となりました。この1年を振り返ってみると、みなさんは何を思い浮かるでしょうか。試練や辛かったことを経験したでしょうか。それにもまして、感謝すべきことは何でしょうか。人生ではいつも前を向いて歩くことが大切ですが、時に立ち止まり、これまでの歩みを顧み、次の一歩への励ましとすることも大切だと思います。
日曜日10時15分からの日本語バイブルスタディーでは、この秋から「人生を導く5つの目的(Purpose Driven Life)」をテキストに学びを始めました。アメリカで1500万部、日本語訳も教会の中で積極的に読まれている一冊だと思います(JKUCブックストアーを通しても16名が購入されています)。40章に渡って書かれている本ですが、一気に読むよりも1章づつ、ゆっくり考えながら読むことをお勧めする一冊です。その本を通して、私たちの生きる意味、人生の意味、人生の目的、人生の目標、人生への視点を学んでいます。
「私は何の為に生きているのか」 これほど大きな、また究極的な質問はないと思います。多くの人々は、日々の忙しさと責任、もしくは退屈さと虚しさの中で人生を過ごし、どんなにお金があって世間で幸せだと言われる生活をしていても、楽しさや喜び以上に苦しみや痛みが心を占める現実を体験します。「私は何の為に生きているのか」という人生の問いに対する答え、人生の価値や目的、意義について、私たちは知る必要があります。そして、明確な生き方を選んでいく必要があります。
教会暦ではアドベントに入り、キリストの降誕を祝う準備が始められています。クリスマスはキリストの誕生日ではありません。キリストの誕生を祝う日として、後に定めた日です。その誕生を祝う理由は、キリストが私たちの人生においてなされた業の故です。自らの罪によって裁かれても仕方ない存在を選び赦し聖めて下さいました。自ら十字架に架かり、私たちの代わりに死んで下さり、贖い主となられました。キリストによって神の赦しと救いが、私たち信じるすべての人々に与えられました(過去)。そして、まだ福音を知らない人々も信じていない人々をも愛し、救いの場を用意して待っておられます(現在)。讃美歌を街角でも耳にするこの季節、すべての人々が本当の意味でキリストの愛を知る特別の機会でもあります。教会のクリスマス礼拝や行事に友人や家族を招待しましょう。人々が心にキリストを迎える時、その時が彼らの個人的な「クリスマス」(キリストの誕生)となるからです。また、約束された再臨のキリストを待ち望む時でもあります(将来)。死んで甦り天に帰られたイエスは、聖書の中で「もう一度、来る」と約束されています。 「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)
◎ Home Group Questions 1.キリストの誕生を祝うことは、単に誰かの誕生日を祝うこととどのような違いがあるのでしょうか。あなたにとって、クリスマスへの心の準備とは何ですか。 2.クリスマスを越えてあなたの人生についての大きな質問です。あなたはあなたの人生を通して、何の為の準備をしていますか。 3.今、年末の忙しさの気配が迫っているでしょうか。今年はどのようにこのクリスマスシーズン(12月)を過ごしたいですか。
<Prepare the Way:マタイ3:1-12> 「1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:1-12)
キリストが公生涯に入られる前に「主の道を整える者」として遣わされたバブテスマのヨハネについての聖書箇所です。バプテスマのヨハネについて、どのようなことが思い浮かびますか。聖書を開きながら、いくつかリストを書き出して見ましょう。
1.祭司ザカリヤとエリサベツの老年の子 2.天使の言葉(ルカ1:13-17):「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」 3.ユダヤの荒野で成長(ルカ1:80) 4.言葉を受ける(ルカ3:2) 5.罪の告白とヨルダン川のバプテスマ(ルカ3:3) 「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」 6.イザヤの預言引用(マタイ3:3、ルカ3:4-6) 7.パリサイ派への説教(悔い改めの実)(マタイ3:7-9) 8.群集への説教(マタイ3:10-11) 9.徴税人への説教 (マタイ3:12-13) 10.兵士への説教 (マタイ3:14) 「14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 11.イエスについての預言(マタイ3:16-17)
ルカ1:17には天使のことばが記されて「エリヤの霊と力で主に先立ち」とあります。この言葉は旧約聖書のメシア預言の中で鍵となる言葉です。なぜなら、旧約聖書を信じるユダヤ人たちは、メシア(救世主)が来られる目印として、その前に預言者エリヤが遣わされるということを旧約聖書から知っていました。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」(マラキ4:5-6)
天使の言葉、バプテスマのヨハネの誕生の知らせは、メシヤ到来の予言成就の第一歩だったのです。バプテスマのヨハネが悔い改めを説き、人々に悔い改めの水のバプテスマを行い、神の言葉(預けられた言葉)を語っていました。人々はユダヤ中から彼の所に来ました(マタイ3:5)。多くの人々は、預言者の1人として見ていましたが、主イエスは、はっきりとバプテスマのヨハネこそ預言されていた「エリヤ」と紹介しています。
「7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「9預言者よりもすぐれた者をです。10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ11:7、9-11、14)
キリストの誕生が旧約聖書に預言されているだけではなく、キリストが来られる前に預言者エリヤが来るという預言も成就されていたのです。クリスマスはキリストの誕生を祝いますが、単に「ある日突然、神の子が地上に来られた」という類のものではなく、旧約聖書の預言と歴史とがぴったりかみ合わさっていることが分かります。
バプテスマのヨハネが示したのは、自分や自分のミニストリーではありませんでした。後に来られるお方、キリストでした。また、水のバプテスマと対照して、主イエスによる「聖霊と火のバプテスマ」について言及しています。この言葉においても、主イエスご自身の約束(ルカ24:49)、そして初代教会の聖霊のバプテスマ体験において預言が成就されています。歴史の中で働かれる神様の御業を仰ぎ見ましょう。 「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4-5)
「また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:3-4)
◎ Home Group Questions 1. 御国に備えて悔い改めることはありますか。 2. あなたにとって悔い改めの実とは、何でしょう 3. イザヤの預言(イザヤ40:3)の言葉を私たちの人生(荒野)に当てはめて考える時、どのような障害を取り除き、主が通られる人生の道をまっすぐにする必要があるでしょうか。
<心いやされるための3つのステップ> 1. 気付き:自分が癒される必要に気付き、それを認める ① 傷ついたセルフイメージはないか ② 触れられると過剰反応して、怒りが噴き出す部分はないか ③ 不安と恐れに駆られる事はないか 2. いやし:そのような反応の出所を知り、神様に癒しを求める 3. 新しいライフスタイル(生き方)の選択 (心をいやす7つのエッセンス2005より) カウンセリングでまず大切なことは「気付き」です。どんなに大酒飲みでも、家庭内暴力を振るっていても、本人が「自分ではやめれない。何とかしなければ!」と気付かなければ改善の余地はありません。親が自分の子供を矯正させようとしても、麻薬やカルト集団から引き離そうと思っても、本人がその間違いに気付かない限りは効果的な改善は起こりません。本人が薄々気付いていても、「認めたくない」「自分がこうなのはOOOのせいだ」「誰でもやっている」と自己正当化している間は「気付き」とは言えません。
「私の心は傷ついているのか?」 心の傷は痛みます。だから、その痛みを感じたくないと思います。そして、ある人は心の感覚や痛みを麻痺させたり、痛くても痛くないと思い込ませたり、「傷ついていない、平気だ」と強がってみたりします。助けや癒しを見出せない状態では、そうでもしなければやっていけないでしょう。しかし、神様のいやしを体験する為には、痛みを認識することが必要です。心の傷をバンドエイドで貼って見えないようにしていても、その下の傷口は膿んでいるということがあります。ただそれを認識するだけでなく、信仰を持って神様に心の痛みを打ち明け、いやして頂くことを願う必要があります。
劣等感を持っていますか?いつも人のことや人の言葉が気になってしまいますか?誰かと比べられて育てられましたか?競争心に燃えますか?それとも、自分はダメだという所からスタートしますか。どんなセルフイメージを持っているでしょうか。
人に何か言われると、すぐに切れてしまいますか。「あの人はこうすべきだ。こうしなければならない。しないのは常識外だ」と、小さな事でも腹が立って、人を責めたり叱責したりする衝動に駆られますか。もしくは、言い知れない不安が自分を取り囲み、新しい一歩を踏み出せないだけでなく、そういう自分にイライラしているでしょうか。恐れを感じると、パニックになったり、泣き出したり叫んだり、もしくは、体に異変を体験しているでしょうか。
精神科医やカウンセラーさえ太刀打ちできない心の傷もあります。しかし、人間を造られた神様は、私たちのすべてをご存知です。また、知っているだけでなく、傷ついた心をいやすプロフェッショナルでもあります。神様と「いやしのプロセス」を過ごすことによって、人々はいやしと解放を体験し、新しい神様との愛の関係に入ることが出来ます。あなたは「いやし主なるお方」を信じますか。
<聖書のクリスマス預言> 「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(2ペテロ1:21)
「1mm以上の降水確率は50%」という天気予報を聞くことがあります。降水確率について、ちょっとした豆知識のお持ちの方もいらっしゃると思いますが、この予報(予測)は、「過去の様々なデータから推測して、今日とほぼ同じ気象条件が100回ありましたが、そのうち50回は翌日に1時間に1mm以上の雨が降りました」という意味です。降水確率0%の場合、100%の確率で雨が1粒も降らないという意味でも、1mmは超えることはないものの、0.6mmくらいのばらついた雨はきっと降るという意味にもなります。よく天気予報が当たるとかはずれるとか言いますが、そういうところにも原因があるのかもしれません。また、何十年ものデータがあったとしても、すべて予測可能という訳でもないことを理解しなければならないでしょう。
旧約聖書のキリスト預言に目を移します。旧約聖書は多くの箇所で、キリストについての預言が書かれています。ある部分は当時十分に理解され認識され、ある部分はその解釈に様々な意見が出され、また、別の部分ではその真理が完全に隠されていました。祭司や律法学者たちは、「ユダヤのベツレヘム」(マタイ2:5)と預言書から読み取りました。しかし、飼い葉おけで眠るイエスを礼拝出来たのは、彼らではなく、羊飼いたちと東方の博士たちでした。キリストについての旧約聖書の預言は、出生地だけに留まりません。当時聖書に精通していた祭司や律法学者でさえ見抜けなかったことを、キリストの生涯を辿る中で、その預言がイエスの人生の中で成就されていたことを発見されるようになりました。歴史がイエスのキリスト性をどんどん証明していった感じさえあります。「予め聖書のメシア預言を熟知した人が、それを自分だと証明するために人生を通して行動を起こしたのだ」という仮説を寄せ付けない圧倒的な成就過程が今日明らかになっています。「デイリーブレッド」に聖書のキリスト預言についての文がありました。
「主イエスは、定められたときに(ダニエル9:25)、ベツレヘムの町で(ミカ5:2)、処女から産まれました(イザヤ7:14)。エレミヤは、ベツレヘムの赤ん坊が殺されると預言しました(エレミヤ31:15)。ホセアはイエスがエジプトへ下り帰郷されると預言しました(ホセア11:1)。イザヤは、ガリラヤでのキリストの宣教を預言しました(イザヤ9:1-2)。また銀貨30枚で裏切られることも(11:12-13)預言しました。ローマ帝国の十字架刑など知らないダビデでしたが、神の霊に満たされて、詩篇22編を書きました。それは、キリストの死を目の当たりにしているかのようです。イザヤ53章には、イエスが拒絶され、刑罰を受け、死んで葬られることが書かれています。これら数人の預言者(実際はもっと多いのですが)は、聖書が信頼出来る書物であることを確信させてくれます。」(2003・12・21)
歴史上だた1度だけ、神が人となって地上に来られ、謙遜と贖いの生涯を全うし天に帰り、今も私たちをとりなして下さっている主イエスに目を向けましょう。気象予測を超えた旧約聖書の預言の成就となられました。クリスマスは、主が地上に来られた理由を知り、祝い、もう一度来られる主に栄光を帰する時です。
<心いやされるための3つのステップ Ⅱ> まず、「自分が癒される必要に気付き、それを認める」ことが、いやしの大きな第一歩になります。癒される必要がある自分を恥ずかしく思う必要はありません。地上で生きるすべての人は、傷ついています。そして、勇気ある信仰の行動は、自分の心の状態をありのまま認め、そのままの自分を神様のいやしの御手に置くことです。
いやしに関しては、牧師も例外ではありません。伝道師や牧師、宣教師も牧会と福音宣教の中で、教会や宣教地で傷つく経験をします。失敗や誤解、期待感によって非難や中傷はいつでも起こります。また、神学教育を受けていても、「現代における聖書的いやし」や「牧師自身の心のいやし」などについて、実践的に学ぶ機会が数少ないことも事実です。アメリカ留学中に学んだこと、取り扱われた領域は、「牧師自身がまず神様からのいやしを体験し、そのいやしの生活に生きること」でした。傷つきたい人は誰もいません。防御する方法を身につけても、それで「傷つく経験」から無縁になるわけでもありません。何より大切なことは、何とか「傷つかないようにする」のではなく、「傷ついた時、どうするか」を知っていることです。蓋をして見ない振りをするのでも、怒りや憤りに身を任せるのでもありません。神様の方法で正しく「傷ついた心をケア」することです。それは、「神様にいやしを求めること」であり、続いて「新しい癒しのライフスタイルを選ぶ」ことです。
第二のプロセスは、「そのような反応の出所を知り、神様に癒しを求める」ことです。まず「反応の出所」を見つけることが必要です。思い出したくないトラウマ、幼時体験、親子関係、表現出来ない心の必要、様々な事柄を取り扱わなければならないかもしれません。 「主よ、私の心の傷はどこから来ていますか?」 「私は、なぜこのように反応してしまうのでしょうか?」 「私が切れたり怒ったり、また逆にうつになる原因はどこになるのでしょうか?」 祈りの中で主に質問します。心を開いて、主に自らの心を探って頂く事が大切です。なぜなら、私たち自身では心の奥底にある事柄、隠された感情、埋没している記憶を取り扱うことが出来ないだけでなく、また危険でもあります。不適切に心の傷が取り扱うと、忘れていたトラウマや事件を思い出して、余計に落ち込んだり鬱になったりします。感情も不安定になり一人で生活することが困難な状態にもなります。
生ゴミを処理したい時、捨てる前に、もう一度その蓋を開けて、すべて取り出して、すべての臭いを嗅ぎ、すべての味を確かめようとするなら、病気になるかもしれません。一番いいのは、蓋をしたまま、ゴミ袋の口を閉じたまま、捨て去ることです。しかし、捨て去ったと思っても記憶の中にその悪臭が漂う時、記憶の中に主のいやしが必要になります。
私たちが祈りの中で主の臨在に入る時、神様の方法で私たちの心の傷を取り扱われます。そこには、知恵の言葉があるでしょう。記憶のいやしがあるでしょう。隠された罪が明らかにされる時、悔い改めが必要となってきます。憎しみや恨みを握り締めている場合、赦しが必要になります。傷つけた人を赦さなければなりません。また、自分自身が加害者であるなら、赦されることが必要です。赦しの宣言が必要です。別のケースでは和解が必要です。夫婦間、親子間、兄弟間での和解、友人間、職場関係、教師と生徒間での和解が必要です。
「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(2コリント5:18-19)
貧しく育てられた経験、比較されて育てられた経験、親の愛を受けずに育った経験、厳しく育てられた経験、家庭内暴力や夫婦不和の環境で育った経験、幼児期の性的虐待等、すべて心の傷の根となっている部分は、主の愛と受け入れ、赦しを受けることを通して、いやされ解放される必要があります。聖霊によって、心をいやして頂く必要があります。いやしの祈りを受けましょう。そして、主がどのように自らの心と人生をいやしてくださるかを体験しましょう。今日では心のいやしに関する聖書的良書が翻訳出版されているので、それらを読み学ぶことを通しても、主のいやしを自らも体験する大きな手助けとなります。
JKUC2004⑫ⅱJKUC2004 ⑫ⅱ 目次 <Obedience to a Call:マタイ1:18-25>(2004年12月24日 第169号) <心いやされるための3つのステップ Ⅲ>(同上) <Leftover Praise:詩篇148>(2004年12月30日 第170号) <2004年を振り返って>(同上) <マルコ書聖書研究プロジェクト2005>(同上)
<Obedience to a Call:マタイ1:18-25> 「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
最近は「できちゃった婚」という言葉が、ごく普通に使われるようになりました。ある人は、「同棲している関係で結婚を考えていたところだったので、踏ん切りがついて結婚します」といいます。ある人は、「子供ができてしまったらから、責任を取って結婚します」といいます。「お腹が出てくる前に結婚式を挙げたいのですが」と教会に飛び込んでくる方もいらっしゃいます。そのようなカップルと出会う時、「よく結婚することを決心しましたね。生まれてくる赤ちゃんは素晴らしいご両親を持てて幸せだと思います」と声を掛けます。なぜなら、私たちの知らない所で多くの人々が中絶を選んでいるからです。
聖書に戻ります。ヨセフは妊娠しているマリヤと結婚しました。しかし、できちゃた婚ではありません。まだヨセフは性関係をマリヤと持っていませんでした。聖書は「聖霊によって身重になった」と記しています。処女マリヤと結婚しようとする青年ヨセフの立場に立って考えて見てください。まだ性関係をもっていない婚約者が妊娠しているのです。もしあなたのフィアンセにそれが起こったら、どうしますか?誰の子か分からないまま、そのまま結婚して生まれて来る子供を育てていく勇気がありますか。おそらく周囲の人々は、ヨセフを「できちゃった婚」だと冷やかしたかもしれません。中傷や非難を受けたかもしれません。もしヨセフが自分の身の潔白さを主張しようものなら、律法に従って性的罪を犯したとしてマリヤは殺されたでしょう。ヨセフは妊娠が発覚した時、「内密に去らせよう」としました。それは、ヨセフの優しさであり、正しさでした。
神様はこのカップルを選び、救い主なるイエスをゆだねられました。マリヤは自分の身に起こったことを、ヨセフは天使の信じがたい知らせを受け入れなければなりませんでした。天使の言葉通りに、マリヤを妻として迎え入れたヨセフの信仰は、キリストが誕生し救いのみ業をなされる道を開いたのでした。主の言葉があなたに語られる時、それを受け止める信仰をもっているでしょうか。
<心いやされるための3つのステップ Ⅲ> 第三のステップは、「新しいライフスタイル(生き方)の選択」です。 もしあなたがある事柄に対して過剰反応してしまうことを知っており、またその反応の元となる原因を知ることが出来るなら、「新しいライフスタイルを選択」出来ることを知ってください。怒って爆発しそうな時、気持ちを静め、その反応が心の傷から来ていることを理解し、主に平安と助けを求めることを選択することが出来ます。落ち込んで自己卑下の泥沼に落ち込もうとする時、今まで自分を苦しめて来た「うつのパターン」を発見して、自己卑下が何の解決にもならず、自己卑下によって実は自分を慰めている事実を理解して、むしろ、主にあって赦されて生きることに目を向けてください。光の子らしく歩むことに思いを寄せましょう。
神様が私たちの心のいやしを願い、実際にいやして下さる一方で、サタンは。私たちの心がいやされないまま、傷ついたままにしておきたいと願います。そして、傷ついたライフスタイルに留まるように誘惑してきます。そして、私たちの選択は、時に「霊的な戦いの瞬間」となります。新しいライフスタイルを選ぶか、古いパターンに戻るかは、自分の選択によって勝敗が決まる「激しい戦場」だからです。私たちは、古いライフスタイルに引き戻そうとする衝動や否定的な思いに戦わなければなりません。否定的な思いが来る時、イエスの御名によって縛って追い出さなければなりません。否定的な思いを拒否するのです。心の傷は、サタンが入り込む入り口になります。その傷ついた思いから入って、アルコール中毒やギャンブル、人への中傷や批判、家庭内不和や暴力へと罪の巣を形成して行きます。
たとえば人が憎いという思いが来た時に、その思いを受け入れると、憎悪が心の中に広がり、怒りが噴出したりします。受け入れなければ、人を憎むことにはなりません。頭のどこかで「私の夫が憎い」と思えば(思考)、瞬間的に心(思い)に入ってきます。決してそれを受け入れてはなりません。イエスの御名によって、その思いを締め出してください。私たちの周りにはいつも誘惑が潜んでいます。その思いが来た時、それを退けるのです。退けるならば、罪を犯したことになりません。それを心に取り込んでその思いに賛同する時、心の罪となりまた罪の実行へと移されます。サタンは何度もそのような否定的な思いで攻撃してきますが、心に受け入れないで退け続けるなら、霊的な戦いに勝利し、誘惑や否定的な思いは去って行きます。私たちが基本的に知っておくべきことは、誰かを憎いという思いは、神様から来たものではないことです。
神様の喜ばれる選択をすることが、新しいライフスタイルへの鍵です。 「いやしのセミナー」に参加して心のいやしを体験しても、その後の生活が新しくされなければ、古い習慣や思い、考えはいつも私たちを捕らえることになります。新しいライフスタイルを選択することは、心のいやしが継続されるだけでなく、霊的な成長の証しとなります。
<Leftover Praise:詩篇148> 「1 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で主をほめたたえよ。 2 主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。 3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。 4 主をほめたたえよ。天の天よ。天の上にある水よ。 5 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主が命じて、彼らが造られた。 6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。 7 地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。 8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。 9 山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。 10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。 11 地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。 12 若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。 13 彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。 14 主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。
今月はクリスマスの集会やメッセージを多く聞く月ですが、クリスマス・イブ礼拝の後、最初の日曜日には何が残っているでしょうか。パーティーを開けば、食べ物に残り物(レフトオーバー)が出てきます。教会では、イブ礼拝をピークとするならば、何が残っている(レフトオーバー)なのでしょうか。
それは賛美です。私たちは主を賛美する多くの理由を持っています。主イエス・キリストが降誕されたことにより、御子イエスを通して、神様は私たちに「神の国」について教えてくださいました。救いの道について示してくださいました。主イエスは十字架上の死によって人類の罪をすべて贖い、私たちに救いをもたらしました。私たちの罪はすべて赦され、永遠の命が与えられ、神の子とされました。また、神様と和解し愛の関係を持つことが可能になりました。私たちはイエスの降誕によって、神様を賛美する理由を多く持っています。
詩篇148編には、「ほめたたえよ」と賛美が繰り返されています。第1節にハレルヤがあり、最後の節もハレルヤで締めくくられています。ハレルヤは、ヘブル語の2人称複数命令形で「(あなたがたは)主を賛美せよ!」という意味です。この天と地にあるものすべてが神を礼拝し賛美することが語りかけられています。それは聖書の一方的な命令ではなく、賛美されるべき理由を伴う命令です。主を賛美しつつ新年を迎えましょう。
<2004年を振り返って> 2004年をあとわずかに残して、この年を振り返って見ると何が思い浮かびますか。 「洗礼(バプテスマ)の年でした」 2004年度は7名のバプテスマがありました。それぞれ違う人生の道のりを歩まれ、違った導きの中で主と出会い、今年洗礼の決心へと一歩を踏み出しました。そして、同じキリストの赦しと救いの恵みに預かることが出来ました。ある人にとっては、洗礼式は通りたくない儀式のように感じます。また、教会に行っているのと洗礼を受けてキリスト者となることを混同することもあります。しかし、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:16)と主イエスが宣言されたこと、信仰によって義とされること(ローマ3:12)、恵みの故に救われること(エペソ2:5)を私たちは信じています。さらに、教会を訪れる方々、信仰に導かれる方々、救いに預かる方々が起こされるように祈ります。
「日本人への伝道に導かれる年でした」 今年の千刈キャンプでは、「信仰の分かち合いー日本人伝道」が大きなテーマとして挙げられました。また教会や役員会の中で、さらに大きな日本人伝道に教会として取り組むことが話し合われました。自分たち為だけの教会意識を持っている限り、聖書的健康的教会へと成長しません。教会が礼拝と弟子訓練、聖徒の交わりの場であると同様に、地域への奉仕と福音宣教、さらに世界宣教に関る必要があります。日本の文化や人々のマインドセット、宗教的タブーや恥文化、日本人的人間関係とコミュニケーションなどを話し合ったり、学ぶ機会を持ちました。WOWでは、6ヶ月かけてアルファコースを学び、またキリストの生涯を辿りながら英語を学ぶクラスにも求道者が来られています。今秋コミュニティーレディーカフェを開き、3名のクリスチャンの証しを聞く場が持たれました。また、それを機会に新しくこられた方々が教会に続けてこられています。
「フェローシップな年でした」 第2礼拝後のランチや交わりは、計11回になります(1/3,2/2, 3/14, 4/4, 25, 5/16, 6/27, 7/18, 25, 8/15, 10/7) 。また、サンクスギビング(11/25,26,27)やクリスマス(12/12,24,25)、ホームグループやお祝いの会、さよならパーティーやピクニック等、教会以外の場所でも様々な集まりが持たれました。いろいろな機会の中で信仰と親交を深めることが出来たのではないかと思います。
「天災が多い年でした」 日本では、台風23号と新潟中越大地震により甚大な被害がありました。年末のニュース特集にチャンネルを合わせれば、「天災の多い年」という言葉を耳にします。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります」(マタイ24:7)という主イエスの終末預言の言葉を、現実味を帯びて受け取ることができます。主の時が近づいていることを覚えつつ、祈りの内に主の再臨の心備えが必要だと感じました。
「新しい人生のスタートの年でした」 2004年、どのようなビジョンと計画を持ってスタートしましたか。神様はあなたの生活と人生の中に介入され、係わりを持たれているでしょうか。神様の新しい導きや奇跡を体験したでしょうか。洗礼だけが新しい信仰のスタートではなく、まだ洗礼を受けていない人にとっても、聖書について知り信仰について目が開かれた年だったでしょうか。すでに洗礼を受けている人にとっては、神様との関係が新たにされた(リニューアル)、信仰にもう一度復帰した(リバイバル)の年であったことを願います。
年末の掃除や新年の準備に追われて忙しい週ですが、しばらくの時間を静まって主と共に過ごされることをお勧めします。この年を振り返って見ると何が思い浮かびますか。
<マルコ書聖書研究プロジェクト2005> KUC月報のMesseger12月号にも記載しましたが、2005年度の一つの計画として、「マルコ書聖書研究プロジェクト2005」を挙げています。今秋、キリスト教出版社「聖文舎」のご好意で、「マルコの福音書注解書」を譲り受けました。「信徒のための聖書講解」シリーズで、とてもわかりやすく注解がなされています。メルマガでも強調しているデボーションに次いでお勧めすることは、聖書の個人的学びです。聖書を深く読み、その背景や文化、文脈を学びながら、聖書が語ることを理解することです。サンデースクールや平日のホームバイブルスタディーに参加出来ない方は、個人で又ご家庭で聖書を学ぶツールとして、注解書は心強い友になります。部数には限りがありますが、教会に来られている方々に無料配布いたします。どうぞオフィスで1冊お受け取り下さい(ご夫婦は2人で1冊とさせて頂きます)。また、新約聖書スタディーバイブル(新共同訳)が今年出版されました。こちらも聖書の学びには強い見方です。オフィスで購入可能です(2960円)。
2004/12/15 JKUC168
JKUCメールマガジン(2004年12月15日 第168号)
<12月19日(日)の予定> シャトル:JR六甲道9:45、阪急六甲9:50 10:00 礼拝 ※ 1月9日まで礼拝は10時から1回のみです ※ 日本語バイブルスタディー・サンデースクールは1月16日からです
<12月の教会行事予定> 16日(木)20時 Bible Study@Mike宅 17日(金)19時 芦屋バイブルスタディー 17日(金)17時20分 神戸市民クリスマス 20日(月)17時 甲南セル大学生 20日(月)19時 Discipleshipスタディー 21日(火)19時半 日本語ホームグループ@岡本 22日(水)7時半 Fellowship Breakfast@六アイ・スタバ 24日(金)19時半 クリスマスイブ礼拝 礼拝後の交わりの時間の為に、クッキーが必要です。冷凍させたクッキーを教会まで持ってきてください。 ※ WOWは1月12日に再開
<聖書を読もう> O イザヤ7:10-16 O 詩篇80:1-7、17-19 O マタイ1:18-25 ◎ デイリーデボーションTVもどうぞ!
<聖書のクリスマス預言> 「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(2ペテロ1:21)
「1mm以上の降水確率は50%」という天気予報を聞くことがあります。降水確率について、ちょっとした豆知識のお持ちの方もいらっしゃると思いますが、この予報(予測)は、「過去の様々なデータから推測して、今日とほぼ同じ気象条件が100回ありましたが、そのうち50回は翌日に1時間に1mm以上の雨が降りました」という意味です。降水確率0%の場合、100%の確率で雨が1粒も降らないという意味でも、1mmは超えることはないものの、0.6mmくらいのばらついた雨はきっと降るという意味にもなります。よく天気予報が当たるとかはずれるとか言いますが、そういうところにも原因があるのかもしれません。また、何十年ものデータがあったとしても、すべて予測可能という訳でもないことを理解しなければならないでしょう。
旧約聖書のキリスト預言に目を移します。旧約聖書は多くの箇所で、キリストについての預言が書かれています。ある部分は当時十分に理解され認識され、ある部分はその解釈に様々な意見が出され、また、別の部分ではその真理が完全に隠されていました。祭司や律法学者たちは、「ユダヤのベツレヘム」(マタイ2:5)と預言書から読み取りました。しかし、飼い葉おけで眠るイエスを礼拝出来たのは、彼らではなく、羊飼いたちと東方の博士たちでした。キリストについての旧約聖書の預言は、出生地だけに留まりません。当時聖書に精通していた祭司や律法学者でさえ見抜けなかったことを、キリストの生涯を辿る中で、その預言がイエスの人生の中で成就されていたことを発見されるようになりました。歴史がイエスのキリスト性をどんどん証明していった感じさえあります。「予め聖書のメシア預言を熟知した人が、それを自分だと証明するために人生を通して行動を起こしたのだ」という仮説を寄せ付けない圧倒的な成就過程が今日明らかになっています。「デイリーブレッド」に聖書のキリスト預言についての文がありました。
「主イエスは、定められたときに(ダニエル9:25)、ベツレヘムの町で(ミカ5:2)、処女から産まれました(イザヤ7:14)。エレミヤは、ベツレヘムの赤ん坊が殺されると預言しました(エレミヤ31:15)。ホセアはイエスがエジプトへ下り帰郷されると預言しました(ホセア11:1)。イザヤは、ガリラヤでのキリストの宣教を預言しました(イザヤ9:1-2)。また銀貨30枚で裏切られることも(11:12-13)預言しました。ローマ帝国の十字架刑など知らないダビデでしたが、神の霊に満たされて、詩篇22編を書きました。それは、キリストの死を目の当たりにしているかのようです。イザヤ53章には、イエスが拒絶され、刑罰を受け、死んで葬られることが書かれています。これら数人の預言者(実際はもっと多いのですが)は、聖書が信頼出来る書物であることを確信させてくれます。」(2003・12・21)
歴史上だた1度だけ、神が人となって地上に来られ、謙遜と贖いの生涯を全うし天に帰り、今も私たちをとりなして下さっている主イエスに目を向けましょう。気象予測を超えた旧約聖書の預言の成就となられました。クリスマスは、主が地上に来られた理由を知り、祝い、もう一度来られる主に栄光を帰する時です。
<心いやされるための3つのステップ Ⅱ> 1. 自分が癒される必要に気付き、それを認める ① 傷ついたセルフイメージはないか ② 触れられると過剰反応して、怒りが噴き出す部分はないか ③ 不安と恐れに駆られる事はないか 2. そのような反応の出所を知り、神様に癒しを求める 3. 新しいライフスタイル(生き方)の選択 (心をいやす7エッセンス2005より) まず、「自分が癒される必要に気付き、それを認める」ことが、いやしの大きな第一歩になります。癒される必要がある自分を恥ずかしく思う必要はありません。地上で生きるすべての人は、傷ついています。そして、勇気ある信仰の行動は、自分の心の状態をありのまま認め、そのままの自分を神様のいやしの御手に置くことです。
いやしに関しては、牧師も例外ではありません。伝道師や牧師、宣教師も牧会と福音宣教の中で、教会や宣教地で傷つく経験をします。失敗や誤解、期待感によって非難や中傷はいつでも起こります。また、神学教育を受けていても、「現代における聖書的いやし」や「牧師自身の心のいやし」などについて、実践的に学ぶ機会が数少ないことも事実です。アメリカ留学中に学んだこと、取り扱われた領域は、「牧師自身がまず神様からのいやしを体験し、そのいやしの生活に生きること」でした。傷つきたい人は誰もいません。防御する方法を身につけても、それで「傷つく経験」から無縁になるわけでもありません。何より大切なことは、何とか「傷つかないようにする」のではなく、「傷ついた時、どうするか」を知っていることです。蓋をして見ない振りをするのでも、怒りや憤りに身を任せるのでもありません。神様の方法で正しく「傷ついた心をケア」することです。それは、「神様にいやしを求めること」であり、続いて「新しい癒しのライフスタイルを選ぶ」ことです。
第二のプロセスは、「そのような反応の出所を知り、神様に癒しを求める」ことです。まず「反応の出所」を見つけることが必要です。思い出したくないトラウマ、幼時体験、親子関係、表現出来ない心の必要、様々な事柄を取り扱わなければならないかもしれません。 「主よ、私の心の傷はどこから来ていますか?」 「私は、なぜこのように反応してしまうのでしょうか?」 「私が切れたり怒ったり、また逆にうつになる原因はどこになるのでしょうか?」 祈りの中で主に質問します。心を開いて、主に自らの心を探って頂く事が大切です。なぜなら、私たち自身では心の奥底にある事柄、隠された感情、埋没している記憶を取り扱うことが出来ないだけでなく、また危険でもあります。不適切に心の傷が取り扱うと、忘れていたトラウマや事件を思い出して、余計に落ち込んだり鬱になったりします。感情も不安定になり一人で生活することが困難な状態にもなります。
生ゴミを処理したい時、捨てる前に、もう一度その蓋を開けて、すべて取り出して、すべての臭いを嗅ぎ、すべての味を確かめようとするなら、病気になるかもしれません。一番いいのは、蓋をしたまま、ゴミ袋の口を閉じたまま、捨て去ることです。しかし、捨て去ったと思っても記憶の中にその悪臭が漂う時、記憶の中に主のいやしが必要になります。
私たちが祈りの中で主の臨在に入る時、神様の方法で私たちの心の傷を取り扱われます。そこには、知恵の言葉があるでしょう。記憶のいやしがあるでしょう。隠された罪が明らかにされる時、悔い改めが必要となってきます。憎しみや恨みを握り締めている場合、赦しが必要になります。傷つけた人を赦さなければなりません。また、自分自身が加害者であるなら、赦されることが必要です。赦しの宣言が必要です。別のケースでは和解が必要です。夫婦間、親子間、兄弟間での和解、友人間、職場関係、教師と生徒間での和解が必要です。
「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(2コリント5:18-19)
貧しく育てられた経験、比較されて育てられた経験、親の愛を受けずに育った経験、厳しく育てられた経験、家庭内暴力や夫婦不和の環境で育った経験、幼児期の性的虐待等、すべて心の傷の根となっている部分は、主の愛と受け入れ、赦しを受けることを通して、いやされ解放される必要があります。聖霊によって、心をいやして頂く必要があります。いやしの祈りを受けましょう。そして、主がどのように自らの心と人生をいやしてくださるかを体験しましょう。今日では心のいやしに関する聖書的良書が翻訳出版されているので、それらを読み学ぶことを通しても、主のいやしを自らも体験する大きな手助けとなります。
<世界宣教の祈り:ポーランド> ドイツとロシア連邦の間に位置し、この国の訳3900万の人々は常に自由を大切にしました。ポーランドの人々は、あらゆる征服を拒み、1989年に東ヨーロッパで初の共産主義ではない首相を選出しました。共産主義支配下の苦い経験により、彼らには民主主義、資本主義の国となる強い願望がありました。すべての人々が望む人生を築く機会が与えられるように、強い経済力と政府を確立する為に大変な努力をしてきました。共産主義時代、キリスト教は存続に苦しみましたが、1990年代初期より教会の設立の強い動きがあります。現在は、キリスト教文学が出版され、聖書が印刷され、いくつかのキリスト教書店が開店しています。夏のバイブルキャンプに参加する、教会員と若者の数は増加しています。ポーランド人の大多数は、カトリック信徒です。近年、これらの人々は、教会に行かない傾向にあります。教会と政府が固く結びついているからです。しかし、自身の不満は横において、自国の出身である法王ヨハネ・パウロ2世が訪問する時には100万もの人々が彼の平和と信仰のメッセージを聞きに訪れます。
◎ 祈りの課題 1. 教派間の分裂の回復の為に 2. クリスチャン指導者たちの生き方とリーダーシップが福音の具体化であるように。 3. ポーランドの人々が物質主義のはかない希望ではなく、永遠の希望をキリストに見出せるように(プレイヤーダイヤリー2005より)
神戸ユニオン教会 日本語ミニストリ― 2004/12/11 JKUC167JKUCメールマガジン(2004年12月10日 第167号)
<12月12日(日)の予定> シャトル:JR六甲道9:45、阪急六甲9:50 10:00 クリスマスセレブレーション礼拝 11:30 インターナショナルポットラック (一人、10人分の料理をお持ち寄り下さい) ※ 1月9日まで礼拝は10時から1回のみです ※ 日本語バイブルスタディー・サンデースクールは1月16日からです
<12月の教会行事予定> 13日(月)17時 甲南セル大学生 13日(月)19時 Discipleshipスタディー 14日(火)19時半 日本語ホームグループ@岡本 15日(水)7時半 Fellowship Breakfast@六アイ・スタバ 16日(木)20時 Bible Study@Mike宅 17日(金)19時 芦屋バイブルスタディー 17日(金)17時20分 神戸市民クリスマス 24日(金)19時半 クリスマスイブ礼拝 礼拝後の交わりの時間の為に、クッキーが必要です。冷凍させたクッキーを教会まで持ってきてください。 ※ 12月26日(日)に洗礼(バプテスマ)式を予定しています。希望者はご連絡下さい。 ※ WOWは1月12日に再開
<聖書を読もう> O イザヤ35:1-10 O ルカ1:46b-55 O マタイ11:2-11 ◎ デイリーデボーションTVもどうぞ!
<Prepare the Way:マタイ3:1-12> 「1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:1-12)
キリストが公生涯に入られる前に「主の道を整える者」として遣わされたバブテスマのヨハネについての聖書箇所です。バプテスマのヨハネについて、どのようなことが思い浮かびますか。聖書を開きながら、いくつかリストを書き出して見ましょう。
1.祭司ザカリヤとエリサベツの老年の子 2.天使の言葉(ルカ1:13-17):「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」 3.ユダヤの荒野で成長(ルカ1:80) 4.言葉を受ける(ルカ3:2) 5.罪の告白とヨルダン川のバプテスマ(ルカ3:3) 「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」 6.イザヤの預言引用(マタイ3:3、ルカ3:4-6) 7.パリサイ派への説教(悔い改めの実)(マタイ3:7-9) 8.群集への説教(マタイ3:10-11) 9.徴税人への説教 (マタイ3:12-13) 10.兵士への説教 (マタイ3:14) 「14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 11.イエスについての預言(マタイ3:16-17)
ルカ1:17には天使のことばが記されて「エリヤの霊と力で主に先立ち」とあります。この言葉は旧約聖書のメシア預言の中で鍵となる言葉です。なぜなら、旧約聖書を信じるユダヤ人たちは、メシア(救世主)が来られる目印として、その前に預言者エリヤが遣わされるということを旧約聖書から知っていました。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。」(マラキ4:5-6)
天使の言葉、バプテスマのヨハネの誕生の知らせは、メシヤ到来の予言成就の第一歩だったのです。バプテスマのヨハネが悔い改めを説き、人々に悔い改めの水のバプテスマを行い、神の言葉(預けられた言葉)を語っていました。人々はユダヤ中から彼の所に来ました(マタイ3:5)。多くの人々は、預言者の1人として見ていましたが、主イエスは、はっきりとバプテスマのヨハネこそ預言されていた「エリヤ」と紹介しています。
「7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「9預言者よりもすぐれた者をです。10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ11:7、9-11、14)
キリストの誕生が旧約聖書に預言されているだけではなく、キリストが来られる前に預言者エリヤが来るという預言も成就されていたのです。クリスマスはキリストの誕生を祝いますが、単に「ある日突然、神の子が地上に来られた」という類のものではなく、旧約聖書の預言と歴史とがぴったりかみ合わさっていることが分かります。
バプテスマのヨハネが示したのは、自分や自分のミニストリーではありませんでした。後に来られるお方、キリストでした。また、水のバプテスマと対照して、主イエスによる「聖霊と火のバプテスマ」について言及しています。この言葉においても、主イエスご自身の約束(ルカ24:49)、そして初代教会の聖霊のバプテスマ体験において預言が成就されています。歴史の中で働かれる神様の御業を仰ぎ見ましょう。 「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4-5)
「また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:3-4)
◎ Home Group Questions 1. 御国に備えて悔い改めることはありますか。 2. あなたにとって悔い改めの実とは、何でしょう 3. イザヤの預言(イザヤ40:3)の言葉を私たちの人生(荒野)に当てはめて考える時、どのような障害を取り除き、主が通られる人生の道をまっすぐにする必要があるでしょうか。
<心いやされるための3つのステップ> 1.自分が癒される必要に気付き、それを認める ① 傷ついたセルフイメージはないか ② 触れられると過剰反応して、怒りが噴き出す部分はないか ③ 不安と恐れに駆られる事はないか 2.そのような反応の出所を知り、神様に癒しを求める 3.新しいライフスタイル(生き方)の選択 (心いやされる7つのエッセンス2005より) カウンセリングでまず大切なことは「気付き」です。どんなに大酒飲みでも、家庭内暴力を振るっていても、本人が「自分ではやめれない。何とかしなければ!」と気付かなければ改善の余地はありません。親が自分の子供を矯正させようとしても、麻薬やカルト集団から引き離そうと思っても、本人がその間違いに気付かない限りは効果的な改善は起こりません。本人が薄々気付いていても、「認めたくない」「自分がこうなのはOOOのせいだ」「誰でもやっている」と自己正当化している間は「気付き」とは言えません。
「私の心は傷ついているのか?」 心の傷は痛みます。だから、その痛みを感じたくないと思います。そして、ある人は心の感覚や痛みを麻痺させたり、痛くても痛くないと思い込ませたり、「傷ついていない、平気だ」と強がってみたりします。助けや癒しを見出せない状態では、そうでもしなければやっていけないでしょう。しかし、神様のいやしを体験する為には、痛みを認識することが必要です。心の傷をバンドエイドで貼って見えないようにしていても、その下の傷口は膿んでいるということがあります。ただそれを認識するだけでなく、信仰を持って神様に心の痛みを打ち明け、いやして頂くことを願う必要があります。
劣等感を持っていますか?いつも人のことや人の言葉が気になってしまいますか?誰かと比べられて育てられましたか?競争心に燃えますか?それとも、自分はダメだという所からスタートしますか。どんなセルフイメージを持っているでしょうか。
人に何か言われると、すぐに切れてしまいますか。「あの人はこうすべきだ。こうしなければならない。しないのは常識外だ」と、小さな事でも腹が立って、人を責めたり叱責したりする衝動に駆られますか。もしくは、言い知れない不安が自分を取り囲み、新しい一歩を踏み出せないだけでなく、そういう自分にイライラしているでしょうか。恐れを感じると、パニックになったり、泣き出したり叫んだり、もしくは、体に異変を体験しているでしょうか。
精神科医やカウンセラーさえ太刀打ちできない心の傷もあります。しかし、人間を造られた神様は、私たちのすべてをご存知です。また、知っているだけでなく、傷ついた心をいやすプロフェッショナルでもあります。神様と「いやしのプロセス」を過ごすことによって、人々はいやしと解放を体験し、新しい神様との愛の関係に入ることが出来ます。あなたは「いやし主なるお方」を信じますか。
神戸ユニオン教会 日本語ミニストリ―
2004/12/4 JKUC166JKUCメールマガジン(2004年12月4日 第166号)
<12月5日(日)の予定> 9:00 コンテンポラリー礼拝(Contemporary) 10:15 日本語バイブルスタディー (サンデースクールは年内最後です) 11:11 とりなしの祈り会 11:30 トラディショナル礼拝(Traditional) ~P&Gクワイヤーのチャリティー募金あります~ (来週から礼拝は10時からになります)
<12月の教会行事予定> 6日(月)17時 甲南セル大学生 6日(月)19時 Discipleshipスタディー 7日(火)19時半 日本語ホームグループ@岡本 8日(水)7時半 Fellowship Breakfast@六アイ・スタバ 8日(水)WOWブランチ@KUC 9日(木)20時 Bible Study@Mike宅 10日(金)18時半 神戸クリスマス・フェスティバル@神戸文化ホール 入場無料 ゲスト:江見太郎牧師(メッセンジャー)石井希尚と天国民(ミュージック&トーク) 12日(日)10:00クリスマスセレブレーション礼拝 12日(日)11時半 インターナショナルポットラック 一人、1品5人分くらいの料理をお持ち下さい 24日(金)19時半 クリスマスイブ礼拝 ※ 12月26日(日)に洗礼(バプテスマ)式を予定しています。希望者はご連絡下さい。3回の準備クラスを行ないます。
<聖書を読もう> O イザヤ11:1-10 O 詩篇72:1-7、18-19 O マタイ3:1-12 ◎ デイリーデボーションTVもどうぞ!
<KUCカレンダー> 教会の行事予定をmsnカレンダーに載せてあります。又、カレンダー上の聖書箇所をクリックすれば、<聖書を読もう>で紹介されている聖書箇所を読むことが出来ます。 ◎ http://calendar.msn.com/kucJapanese@hotmail.com
<What Are You Getting Ready For?:イザヤ2:1-5> 「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」
今年もあと1ヶ月となりました。この1年を振り返ってみると、みなさんは何を思い浮かるでしょうか。試練や辛かったことを経験したでしょうか。それにもまして、感謝すべきことは何でしょうか。人生ではいつも前を向いて歩くことが大切ですが、時に立ち止まり、これまでの歩みを顧み、次の一歩への励ましとすることも大切だと思います。
日曜日10時15分からの日本語バイブルスタディーでは、この秋から「人生を導く5つの目的(Purpose Driven Life)」をテキストに学びを始めました。アメリカで1500万部、日本語訳も教会の中で積極的に読まれている一冊だと思います(JKUCブックストアーを通しても16名が購入されています)。40章に渡って書かれている本ですが、一気に読むよりも1章づつ、ゆっくり考えながら読むことをお勧めする一冊です。その本を通して、私たちの生きる意味、人生の意味、人生の目的、人生の目標、人生への視点を学んでいます。
「私は何の為に生きているのか」 これほど大きな、また究極的な質問はないと思います。多くの人々は、日々の忙しさと責任、もしくは退屈さと虚しさの中で人生を過ごし、どんなにお金があって世間で幸せだと言われる生活をしていても、楽しさや喜び以上に苦しみや痛みが心を占める現実を体験します。「私は何の為に生きているのか」という人生の問いに対する答え、人生の価値や目的、意義について、私たちは知る必要があります。そして、明確な生き方を選んでいく必要があります。
教会暦ではアドベントに入り、キリストの降誕を祝う準備が始められています。クリスマスはキリストの誕生日ではありません。キリストの誕生を祝う日として、後に定めた日です。その誕生を祝う理由は、キリストが私たちの人生においてなされた業の故です。自らの罪によって裁かれても仕方ない存在を選び赦し聖めて下さいました。自ら十字架に架かり、私たちの代わりに死んで下さり、贖い主となられました。キリストによって神の赦しと救いが、私たち信じるすべての人々に与えられました(過去)。そして、まだ福音を知らない人々も信じていない人々をも愛し、救いの場を用意して待っておられます(現在)。讃美歌を街角でも耳にするこの季節、すべての人々が本当の意味でキリストの愛を知る特別の機会でもあります。教会のクリスマス礼拝や行事に友人や家族を招待しましょう。人々が心にキリストを迎える時、その時が彼らの個人的な「クリスマス」(キリストの誕生)となるからです。また、約束された再臨のキリストを待ち望む時でもあります(将来)。死んで甦り天に帰られたイエスは、聖書の中で「もう一度、来る」と約束されています。
「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)
◎ Home Group Questions 1.キリストの誕生を祝うことは、単に誰かの誕生日を祝うこととどのような違いがあるのでしょうか。あなたにとって、クリスマスへの心の準備とは何ですか。 2.クリスマスを越えてあなたの人生についての大きな質問です。あなたはあなたの人生を通して、何の為の準備をしていますか。 3.今、年末の忙しさの気配が迫っているでしょうか。今年はどのようにこのクリスマスシーズン(12月)を過ごしたいですか。
<世界宣教の祈り:アフリカの女性たち> 1.エイズの女性感染者 UNAIDの2002年11月の報告によると、エイズ感染者の過半数は女性です。サハラ砂漠以南地域のアフリカでは3000万人の感染者のうち、58%が女性です。北アフリカ、中東地域では55%、カリブ海地域では50%、東ヨーロッパや中国、インドでもその傾向は増加し続けています。なぜ、ケニアやエチオピア、マラウィ、タンザニア、ジンバブエ、ザンビアで15-19歳の女性感染者の増加率が、同年代の男性より5-6倍高いのでしょうか。身体的、社会的、法的、文化的に弱者である彼女たちに希望はないのでしょうか。
2.力の差 エイズに対抗していく為、適切な教育が欠かせません。調査によると、アフリカの女性たちは、この病気から身を守る方法についてあまりにも無知のようです。しかしながら、男尊女卑のこの地で、教育だけでは彼女たちを救えません。一夫多妻性がまかり通っている社会で、社会的、法的に低い立場の女性たちが、夫との関係において口出しなどすれば、彼女の身にはさらなる危険が及ぶばかりです。
3.若い女性や少女たち 若い女性や少女たちは、未完成の故に、さらに大きな危険にあると言えます。処女と関係を持つとあらゆる病気から癒されると言うような神話があり、若い女性たちが餌食になっています。若い女性の体は特にエイズにも感染しやすいらしく、感染者増加の一途に拍車をかけています。エイズ孤児の中でも特に少女たちが虐待の矛先とされています。学校をやめ、兄弟姉妹の将来の全責任を負う者もいます。家族の生き残りをかけて多くが性産業へ身を投じて行きます。親類等に引き取られる孤児もいますが、彼女たちに対する性的虐待の比率は驚異的です。現実は厳しく、彼女が虐待を通報した所で、生意気で乱交好きだと非難の目にさらされ、医療機関も取り合ってくれなかったり、女性や子供に対してあまりに無慈悲な警察や、若者を守るすべのない裁判方法に、ただ落胆するのみなのです。
4.未亡人 この病気で夫に先立たれた未亡人も、絶望的です。多くが慣習に乗っ取った法令に基づいて性の奴隷とされています。清めの儀式と題して、社会的地位の低い男性に家族がお金を支払い、彼女を悪霊から清めるために性関係を強要されます。また、彼女の遺産や家、土地等も強制的に親戚の男たちが巻き上げて行きます。ケニアの女性感染者は、そのほぼ全員が夫やパートナーから感染しており、相棒を失った彼女たちは、自分の治療費に遣う遺産だけでなく、病の体を横たえる家さえも取り上げられるのです。養育費もなく、その子供たちの将来は絶望的です。
5.危機にさらされている大陸 アフリカ各国政府は、女性の権利を守る為の政策には無頓着で、このままでは師の連鎖を食い止めることが不可能です。エイズは、国の農業生産性を低下させ(アフリカは農業は女性の手でなされている)、食糧難、失業、性的虐待の蔓延、孤児の増加、貧困と悪循環を引き起こすばかりです。今こそ教会がこの悲劇に立ち向かうべく一致しなければ、アフリカの女性たちの苦しみに終わりはありません。
6.あなたに出来ること a) 祈る ―乱交や性的虐待が無くなり、女性たちに希望と癒しがあるように ―エイズ孤児となった少女たちに守りと備え、愛の手があるように ―女性を守る法律の制定の為に b) アクション ―地域の政治家たちに掛け合い、アフリカの助成のための基金成立を目指す ―モザンビークの母親たちの教育、就職の為に(http://www.wr.org) ( YWAM Personal Prayer Diary 2004 p23)
神戸ユニオン教会 日本語ミニストリ― 2004/11/26 JKUC165JKUCメールマガジン(2004年11月26日 第165号)
<11月28日(日)の予定> 9:00 コンテンポラリー礼拝(Contemporary) 10:05 教会年間総会 10:15 日本語バイブルスタディー 11:11 とりなしの祈り会 11:30 トラディショナル礼拝(Traditional)
<最新の教会行事予定> 27日(土)19時 ムービーナイト(自分の毛布や敷物、枕を持参して下さい) 29日(月)17時 甲南セル大学生 29日(月)19時 Discipleshipスタディー 30日(火)19時半 日本語ホームグループ@岡本 1日(水)7時半 Fellowship Breakfast@六アイ・スタバ 1日(水)9時半 WOW@KUC 2日(木)20時 Bible Study@OMike宅 3日(金)15時&19時 ゴスペルin 文楽@カトリック神戸中央教会 3500円 4日(土)10時 神戸炊き出し会 ボランティア申し込みはオフィスまで。 12月8日(水)WOWブランチ@KUC 10日(金)18時半 神戸クリスマス・フェスティバル@神戸文化ホール 入場無料 ゲスト:江見太郎牧師(メッセンジャー)石井希尚と天国民(ミュージック&トーク) ※ 12月26日(日)に洗礼(バプテスマ)式を予定しています。希望者はご連絡下さい。3回の準備クラスを行ないます。
<聖書を読もう> O イザヤ2:1-5 O 詩篇122 O マタイ24:36-44 ◎ デイリーデボーションTVもどうぞ!
<KUCカレンダー> 教会の行事予定をmsnカレンダーに載せてあります。又、カレンダー上の聖書箇所をクリックすれば、<聖書を読もう>で紹介されている聖書箇所を読むことが出来ます。 ◎ http://calendar.msn.com/kucJapanese@hotmail.com
<Stewardship:Jim Bechtoldさんの証し> 日曜日にはマイク牧師のメッセージの後、Jim Bechtoldさんからチャレンジに満ちた証しの時間がありました。今まで献金を捧げた経験があっても、献金皿が回されて、そこからお金を取ることはほとんどの人が経験がないと思います。用意された総額がいくらになるかは知りませんが、1千円―1万円が入った封筒が200枚以上用意され、すべての礼拝出席者はお金の入った封筒を受け取りました(そのお金は教会会計からではなく、Jimさんご自身が準備されました)。「現金を貰える教会?」 実際に現金を手にして不思議な気分になった人もいると思いますが、私たちは「与えられていること」と「与えること」両方を学ばなければならないのだと思います。その証しの中で「私たちが受けているすべてのお金、財産、祝福は、すべて神様のもので、私たちはそれを用いるように委ねられている」とチャレンジされました。私たちは、与えられた封筒のお金を、私たちの周りで必要としている人に与えるというミッションを得ました。自分の必要を満たすのでも、教会に返すのでもありません。他の誰の必要を満たす使命を得ました。
<Who is Your Leader?:コロサイ1:11-20> 「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」
書店に行けばリーダーシップに関する本が所狭しと並んでいます。様々な業界の起業家や社長が経営戦略について書いたビジネス書も多く見られます。成功している社長やリーダーは、勇敢で忍耐強く、創造的で情熱があり、恐れることなく、揺るがされることがないイメージがあります。そのような能力や才能、力は自分にないと思うかもしれません。今日、私たちは自分の中に何かを見つけ出そうとする代わりに、私たちが従うべきお方、私たちのリーダー、王であるキリストに心の目を向けたいと思います。
私たちは「愛する御子の支配」(13)の中にいます。御子はすべてを創造し(17)、教会(私たち)のかしら、リーダーであるお方です。このお方は、リーダーという高い所に座して命令を下すお方ではなく、人間の体をとって、この地上に来て下さり、この世のすべての苦しみを知ってくださり、そればかりではなく、私たちすべての罪を自らの身に背負って下さったお方です。王なるお方でも、仕えられるより仕えることを選ばれたお方です。自らを贖いの小羊として捧げ、罪の赦しを完成し、父なる神と私たち人間の間にあった罪の隔てを取り除き、和解をもたらさせて下さったお方です。私たちが仕えている王は、仕えることを自ら示された王です。
私たちの心は、この王なる主イエスに向けられているでしょうか。主イエスの言葉を王の言葉として聞き、それに従い、生活しているでしょうか。ある人は、「主イエスに従う」という言葉を聞く時に、「神の律法を守ること」「十戒を破らないこと」等を反射的に思い浮かべます。もし主イエスとの関係が、律法や十戒を守ることとすりかわっているなら、要注意です。確かに神様はイスラエルとの関係の中で律法を与えられましたが、私たちにはさらに優れた主イエスとの関係が与えられています。私たちが主イエスに従うのは、神の御子であるという本質の故だけではなく、その贖いの業の故に、愛の応答と感謝を持って従うことが出来ます。そして、ご自身が何よりもその模範を人生を通して見せて下さいました。
私たちの心は、この王なるイエスに向けられているでしょうか。私たちの周りには問題があります。受け入れがたいこと、信じられないこと、思いがけに事故や不幸に見舞われることがあります。職場や学校でのプレッシャーや責任、家族・親族関係、友人関係のもつれ、争い、怒り、憎しみに巻き込まれることがあるかもしれません。自分自身に失望して、深い劣等感を持ち、存在意義がないことに途方に暮れることがあるかもしれません。ある人の言葉がナイフのように心に刺さって、心に痛みと苦しみを覚え続けたことはないでしょうか。心傷つけられた経験から、今度は相手を憎んだり恨んだり無視したりした経験はないでしょうか。私たちが私たちの生活の中に、私たちの人間関係に、また私たちの心の中に問題を見つける時、私たちはそれを見つめ、思考を凝らし、触り続け、私たちの目はいつもそこに注がれ続けています。目を逸らしたい出来事でも忘れたい事柄でも、なぜか心の中に、怒りや悲しみ、復讐心や失望感となって、残っていることを発見します。決してその問題から目を離すことが出来ない自分がそこにいます。私たちが問題を見つめている限り、私たちの目は決して主イエスを見上げることは出来ません。
私たちの心は、この王なるイエスに向けられているでしょうか。主イエスが与える戒めは、愛の戒めです。人々を愛することです。自分と異なっている人を受け入れることです。害を及ぼした人を赦すことです。与えることです。祝福することです。励まし手、慰め手となることです。主イエスの愛の御業を人々に分かち合うことです。神に栄光を帰すことです。この王の愛の戒めに喜んで従いたいと思うでしょうか。
私たちは御言葉と祈りと賛美を持って、私たちの心を主に向けます。御言葉は私たちの光となり、祈りは神様への告白となり、賛美は神の臨在を招きます。今日祈りをもって、私たちの目を王なるイエスに向けましょう。
「主イエス様、あなたは私の王です、主です。私は私が抱えている問題ではなく、あなたに目を向けます。私の幸せや関心事ではなく、あなたに目を向けます。従って行きたいです。自分自身のことや周りに目が行くことから守ってください。あなたの国民とされたことを感謝します。アーメン」
◎ Home Group Questions 1. あなたにとって最も大切なものがあなたの人生の中心であり、人生を導いているものです。あなたの人生を導いているものは何でしょう。 2. 私たちの人生に問題が起こる時、私たちはその問題を見つけ過ぎて主を見上げなくなる罠にはまってしまいます。そのような状況に陥っていませんか。捕らわれているものはありませんか。 3.キリストはあなたの王でしょうか。
<心にみことばを蓄える> 「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」(マタイ4:8-11)
イエス様が荒野で受けた第3の誘惑は、十字架による救いの道を捨てさせ、この世を権力で支配する安易な道を選ばせようとする誘惑です。それは、神の国の実現を妨害しようとするサタンの陰謀でした。それにはたった一つの条件がありましたが、それは「わたし(悪魔)を拝むなら」というもので、イエス様にとって致命的な罠でした。
イエス様はこの誘惑を含めた3つの誘惑に対して申命記のみことばで勝利されました。(順に8:3、8:16、6:13)。申命記の「申」は「再び」という意味で、「以前主が語られたものの繰り返しと説明」という申命記の内容を表わしています。イエス様は神がイスラエルに繰り返し語られた申命記の御言葉を心に蓄え、覚えた言葉を剣(エペソ6:17)として悪魔に立ち向かわれました。私たちも聖書の御言葉により、誘惑に勝利し悪魔を撃退していきたいものです。
◎ 黙想 1. あなたは、あなたの信仰を妥協させようとする悪魔のささやきに対して、はっきり「ノー」と拒絶していますか。 2. あなたの心の中には、聖書の御言葉がどのくらい蓄えられていますか。聖句を暗唱する習慣を身につけませんか。(シャイン13 p8)
神戸ユニオン教会 日本語ミニストリ―
2004/11/20 JKUC164JKUCメールマガジン(2004年11月18日 第164号)
<11月21日(日)の予定> 9:00 コンテンポラリー礼拝(Contemporary) 10:15 日本語バイブルスタディー 11:11 とりなしの祈り会 11:30 トラディショナル礼拝(Traditional)
<11月の教会行事予定> 20日(土)9時半 WOWコミュニティーコーヒー会 どなたでも(女性)どうぞ! 22日(月)17時 甲南セル大学生 (23日(火)19時半 日本語ホームグループ@岡本:休会) 23日(火)15時 関西賛美フェスティバル@大阪女学院へールチャペル 入場無料 http://www7.ocn.ne.jp/~d.c/gospel.html 24日(水)7時半 Fellowship Breakfast@六アイ・スタバ 24日(水)9時半 WOW@KUC 25日(木)17時半 サンクスギビングポットラック@ノルウェー学校 オフィスでサインアップして、サイドディシュを持って来て下さい 26日(金)20時 住吉Bible Study@Oya宅 27日(土)17時 クリスマスツリーの飾り付け会 19時 ムービーナイト(自分の毛布や敷物、枕を持参して下さい)
<聖書を読もう> O エレミヤ23:1-6 O ルカ1:68-79 O ルカ23:33-43 http://calendar.msn.com/kucJapanese@hotmail.com ◎ デイリーデボーションTVもどうぞ!
<A New Heaven and New Earth:イザヤ65:17-25> 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。23 彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。25 狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。」
17節を見ると、「先のことは思い出さず、心に上がることもない」と出てきますが、私たちはよく過去のことを思い出し、そのことで腹を立てたりイライラしたりします。楽しかった思い出や良かったことを思い出せるなら幸せかもしれませんが、「心に上がってくること」は、自分が傷つけられたことや失敗をして自分や人、会社や団体を責め怒る思い、劣等感や不平不満であることが何と多いでしょう。マイク牧師は「Change(変化すること) 」を語られました。神様は変わることがないお方ですが、私たちクリスチャンは変わっていくことに召されていると言えます。罪ある状態から、救いを受け、義と認められ、キリストと歩む新しい人生へと召されています。信仰を持ち洗礼を受けたからといって、それで完璧なキリスト者となるわけではありません。古い習慣を捨て、古い自我を捨て、キリストの似姿に変えられていく聖化のプロセスに入ります。悔い改めと赦し、いやしと解放、祈りと御言葉、教会の交わりと奉仕、礼拝と弟子訓練、聖霊との親しい交わりが必要です。
神様が新しく創造されるという「新しい天、新しい地」は夢やおとぎの国かのようで、現実として想像することが難しいかもしれません。しかし、この「新しい天、新しい地」の預言は聖書の他の書にも登場し、まだ私たちが目にしていませんが、やがて成就する創造の業です。新約聖書の2ペテロやヨハネの黙示録を読むと、キリストの再臨と終末に続く「新しい天と新しい地」のことが書かれています。今の世界、天も地も過ぎ去り、神の完全な支配の中にある「新しい天、新しい地」が到来するとあります。
イザヤ66:22「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」 2ペテロ3:13「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」 黙示録21:1「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
先日、「黄泉かえり」という映画(ビデオ)を見ました。大分県で突然死んだ人が甦り、死に別れた母や妻、兄弟の前に現れ、感動の再会をするが、ある日の夕刻、一斉に消えてしまうお話です。その間、この不思議を解明しようとする人々、また死んだ人が甦ることによって起こる様々な人間模様が描かれています。
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(黙示録20:4-6)
ここで、第一の復活にあずかった聖徒は、甦った後、キリスト共に千年間、祭司となり、王となるとされています。甦りの聖徒は、映画のように消えてしまわないで、人間の寿命をはるかに超えて生きるのです。そして、千年の後、サタンの完全な敗北、最後の裁き、新しい天と新しい地の到来とヨハネの黙示録20章で展開されています。
「キリストの再臨」を待ち望む時、私たちは自らの信仰を顧み、悔い改め、キリストの関係を新たにし、再臨のキリストを迎える心の準備が必要であることに気付きます。天と地が完全に新にされる前に、今日この日に、私たち自身の習慣や内面、信仰や愛において、新たにされましょう。
◎ Home Group Questions 1. 人生で今慣れ親しんでしまっていることは何でしょうか。神様はどのような変化を望まれていますか。 2. この世で不条理に思えること、不公平に思えることは、ありますか。私たちは神様の視点からどのように見ることが出来るでしょうか。 3. キリストの再臨を待ち望む時、私たちの生活や信仰はどのように変わりますか。
<釈迦とキリスト> 以前のライブラリー紹介で取り上げました「イエスに出会った僧侶」から、釈迦とキリストの言葉をいくつか比較して考察したいと思います。
松岡牧師は、本来の仏教について、「簡単に言えば、物事の真相を見抜き、その真理に基づいて人生の苦しみからの解放を果たすと言うことです。つまり、存在するものはすべて移り変わるもので、いつまでも変わらずに存在するものはない。人間は、本来虚しく、必ず消えていき、変わっていく存在に対して執着や欲望を起こす。また、失われるのではないかという恐れ自体も苦しみとなる。従って、人生の苦しみから解放される道は、物事は虚しいと言う真相を良くわきまえ、執着や欲望を絶つことである」(p83-84)と説明しています。釈迦は、これが悟りであり人生の答えだとたどり着いたのです。確かにすべてに「自分のもの」という意識が働く時に、イライラや人生の苦しみが起こります。自分の生活、お金、衣食住、学歴、尊敬が気になったり、人のことでも「こうすべきだ」「私ならこうする」と自分のものとして取り込んでしまうと、イライラが始まります。その意識を手放せば、とても楽になります。
アメリカでカウンセリングを学んでいる時、「Letting go(こだわっていることを手放すこと)」という言葉をよく使いました。手放したらもっと楽なのに、どうしても手放せない為に、うつ病になる人が多いと言われます。「彼女に振られた」「夫が浮気をして家出した」「親が病気で死んでしまった」「新車が傷つけられた」「会社が倒産した」「解雇された」。受け入れられない現実を思考の中で握り締め、手放すことが出来ず、いつもそのことで怒り悲しみ自分と人を責め、過去の一点からから離れられないことが長期に起こると、人はうつ病になります。しかし、手放すことを学び始めると回復に向かい、新しい人生への歩みを始めることが可能になります。釈迦のように「すべては変わってしまう。執着を捨てよう」と心を柔らかにすると、きっと良くなっていくと思います。キリスト教カウンセリングでは、「自分で握り締めないで、主に委ねる」と言います。どのような状況においても、神様は私たちの最善を成して下さるお方で、すべての試練も困難もそれを耐えることの出来る力を与え守り、さらに大いなるご計画に導いて下さることを信じます。自分で自分の人生をコントロールすることを明け渡し、代わりに全能なる愛で満ちた父なる神様に、私たちの人生のリーダーとなって頂くわけです。自分で車を運転して、人生の迷路に迷い込み、どうしたらいいか分からない時、自分の車のドライバーは自分であるという固定観念から解放され、神様への信頼をもってドライバー席を明け渡すなら、神様は正しい道へと導いてくださいます。これがキリストへの信仰です。
聖書を開けば、主イエスは「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:31)と語っています。心配しないこと、所有へ意識を捨てることは、幸せな人生の鍵でしょう。釈迦の悟りには、神様や霊的超越的な存在は一切登場しません。あくまでひとりの人間が心の葛藤から如何に離れ生きていくかを発見した(悟った)と言えます。一方聖書は、主イエス、もしくは父なる神様との関係の中でメッセージが語られています。
「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6:32) 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28) 「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39) 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24-25)
私たちの平安は、自分の欲求から解放された自分を保つことから来るのではなく、何も心配しなくても私たちを愛し面倒を見てくださる愛の神様がいるところから来ます。「愛の神様がいる」という概念に留まることから来る平安ではなく、実際に今も生きて働かれる神様が私たちの毎日の生活に関わってくださっているという現実から体験的平安と言えるでしょう。「教会に行っている、クリスチャンです」と言っても観念だけでしか神様を知らない場合は、「西洋の宗教を信じている日本人」という枠組みにある宗教信仰者のひとりになってしまいます。クリスチャンの醍醐味は、「~しなければならない」という律法ではなく、見えないけれども誰でも個人的に体験できる神様との関係と言うことが出来ます。
神戸ユニオン教会 日本語ミニストリ―
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